2014年12月31日

46 2014年大晦日 / 今年のジュウ大ニュース

今年最後の日にやっと休みになった。昼間にさっと掃除を済ませたので、今年を振り返ってみようと思う。忙しさに追われたまま年末になだれ込んでしまったので、一度整理してみて明日からの新年をすっきりとスタートさせたい。
私にとっての重大出来事を順位を付けずに時系列的にピックアップしてみようと思う。果たして十大ニュースになり得るかどうか。
今年という年がどういう年だったのか、これはあくまでも自分の為の整理。長くなると思うので、読んで頂くのは忍びない。私の生存確認の為に運悪くこのページを開いてしまった心優しい方、斜めに読み飛ばして下さい。
1、 転居
自宅、事務所共に引越しをする。私が所属する伝統芸術振興会の前会長で8年前に亡くなった南部峯希の遺品の片付けもすることがやっと出来た。南部には身寄りが無く、68代目にして長きに渡った家系を閉じることになったのだが、あだやおろそかに処分出来る物ばかりでは無かったので、かなり難儀した。モノを捨てない南部だったので、あの世から私を叱っているだろうなあと思いながら、バッサリとやるしか無かった。これが結構ストレスとなって、それが滓のようにまだ少し心に溜まっている。これは時間が解決してくれるだろうが、こういったこともあったので、自分は片付けに他人の手を煩わせたくないという思いは更に強まったのである。
いずれにしても、この二つの転居によって、より「トランクひとつ」の道に近づいたのだ。その後の歩みは止まっているが、新年には再開したい。
2、 膝痛
引越しの片付けが落ち着いた頃に、突然膝痛が起きた。かつて無い痛みだ。加齢現象ということでよく目にし耳にする膝痛だが、私の場合、体重増加も起因している。
多忙による運動不足、睡眠不足で新陳代謝が落ちているので、この12年でかつて無いほど体重が増えた。膝痛の為に歩かなかったので、更に増えた。そしてまた膝に負担が…と、悪循環である。
日本文化の教室の時には正座がつきものなので、冷や汗ものだった。酷い時はさすがに勘弁してもらったが、子ども達にきちんとするように注意しながら、情けないことであった。
もっと情けないのは、痛みが酷くて耐えている時に「どうせ酔っ払って転んだんでしょう?」と決めつけられたことである。私の日常がどんなものなのか、私がどう思われているか、これで明白だ。
大分良くなってきたので、少しずつ歩く時間を多くしようと思っている。
3、 甥の結婚
以前にも書いたが、今風では無くて、却ってとても良い結婚式だった。喜ばしいニュースの一つだった。
4、 母を特養に入れる
親を家で看られないのは辛いことだが、状況によっては家で看るのはもっと辛い。私から見て、母の状態は決して家で看られないとは思えないが、私が出来る訳でも無く、無責任なことは言えない。
昨年あたりから、老健に三ヶ月入院~自宅~老健~自宅と二回程繰り返したが、そろそろどこか特養にという話も出ていたところだった。特養は探してもなかなか見つからないものらしく、個室にも入れたし、費用は年金で賄え、外出も面会も自由、という条件が揃った所に母が入れたのは、むしろラッキーだと思わなければいけないようだ。足がまだ動く内に母の大好きな温泉に連れて行こうと妹たちと話している。妹二人がすぐに行ける所に、母の入った特養があるのはこれも幸いだった。
5、 大津健二さん逝去
大津さんは、学生時代に日生劇場でアルバイトしていた時の上役だった人だが、齢も近く感覚も合うせいか、私達アルバイト生とも仲良くしてくれて、飲みに行ったり旅行したりした仲である。学生時代の4年間、日生劇場のアルバイトを続けた吉田君は殊に、大津さんを兄のように慕い、悪友のようにもふざけたりして仲良く何十年も過ごしたので、大津さんの死に接した彼の気落ちぶりは見ていて辛いものがあった。お父様は、あの有名な「花のまわりで」の作曲者の大津三郎で弟さんも音楽家の、いわば音楽一家で育ちながら、大津さんはかつては日大全共闘の闘士であったが、その徹底したフェミニストぶりには、やはり育ちの良さを感じた。江戸っ子なので優しさを隠しがちだったが、実は気遣いの人で、私の制作する舞台を観に来てくれた時も、いつも心温かい感想を言ってくれた。大津さん、色々とありがとう。感謝しています。
6、ニューヨーク旅行
 十何年ぶりのNYだった。久しぶりのNYはとても清潔で安全になっていた。かつてはなるべく乗らないようにしていた地下鉄も明るくなって、一般の乗客の他に観光客も沢山乗っていた。何よりも、車両に落書きが一切無くピカピカしている。街を歩くのも以前は緊張感があったが、何となくのんびりしている感じもあり、夜っぴて街に鳴り響いていたサイレンの音も以前より少なく、拍子抜けするくらいだった。とは言え、油断が出来ないのがNYではあるが、絶対行くなと言われていた通りが安全になった分、危険な所はより危なくなったようだ。行き場の無くなったものは一定の所に押し込められてしまったのであろう。
今まで何度NYへ行っても、行かなかった場所もある。人が知らない所に妙に詳しいくせに有名な観光場所には行ったことが無かったりしていた。今回は姪と一緒ということもあり、今まで登ったことが無かったエンパイアステートビルにも登った。他にも観光ルート的に街を回ったが、それはそれで面白かった。アメリカは外国に出かけて行って戦争をして街を壊すが、自国では戦争をしないので、古い建物が残っている。それもどうかと思うことだが…
古い物と最新式の物が共存している大都会はとても魅力的だ。街歩きをしているだけで面白いのはこういったことと、様々な人種が行き来しているのを見られるからだろう。
NY生活がもう25年になる友人、アーティストの高木真弓さんの仕事ぶりや生活ぶりに接することが出来たのも嬉しいことだった。NYでアーチストとして生きていくのがどのくらい大変かは想像に難くない。アートの最先端の街で活動するのは素晴らしいことだと思うし、これからも良い作品を作り続けて欲しいものだ。
さて、今回の一大目的であるミュージカル「ザ・ラストシップ」だが、とても楽しめた。華やかさは無いので、ブロードウェイ観光ミュージカルが好きな人にとっては物足りないかもしれないが、骨太の男っぽい舞台でコーラスも良く、見ごたえがあった。客席は初日らしく舞台関係者やマスコミ関係者らしき人も多く賑やかで、受けも良かったので、一体感があって満足した時間が過ごせた。翌朝、早速ニューヨークタイムズを買って劇評を捜すがどこにも見当たらない。隅から隅まで見たが別のページにも掲載されていない。その後の評判はどうなのだろう。自分が楽しめたからどうでも良いのだけれど。














7、 二人の師の死
朝倉摂先生が317日に逝去された。私は美術が専門では無いので師と呼ぶ方としては筋が違うが、実際、朝倉先生とお呼びしていたし、私を立動舎に誘って下さり、より専門的に舞台に関わるきっかけを作って下さった方なので、まさに師なのである。実際に仕事をご一緒したのはほんの数年だったが、また改めて仕事をしたいと思い続け、時折どこかの劇場でばったりお会いしてはご挨拶をしていたが、結局は実現しなかったのが残念だ。
117日にはお茶の先生である桜井宗梅先生が亡くなられた。宗梅先生は近代茶道数寄者の高橋箒庵師のお嬢さんなので、幼少の頃から海外からのVIPのご接待にも同席されたということで、チャップリンと一緒の写真を見せて頂いたこともあった。元々のお顔立ちもあるが、お歳を召されてからも華やかで美しく可愛らしい方であった。茶碗の中の世界に宇宙論を込められて稽古をつけて下さったのが忘れられない。私は事情があってしばらく稽古を休んでいたが、宗梅先生がお元気な内にまた稽古を再開したいと思っていた矢先だったので、本当に心残りである。
お二人の死に接して思うのは、いつか、いつか、と思っていたのでは駄目なのだということだ。せっかく素晴らしい方にご縁があったのに、そのご縁を生かし切れないのはあまりにももったいない。ましてや、私自身ももう先が長くないのだから。
8、 花房徹逝去
以前にも少し触れたが、まだまだ心の整理が出来ない。もう居ないのだという思いだけが日増しに強くなる。
来年211日に「花房徹を語る会」と称して、下北沢の劇場でお別れの会を開くのだが、彼に関して私は何が語れるのであろうか。
9、 又姪の誕生
姪の娘の事は、姪孫(てっそん)もしくは、又姪(まためい)と呼ぶのだそうだ。姪孫には孫という字が入っているので、ちょっとババくさい気がするから、私は又姪と呼ぶことにする。


10、言葉では表せない大自然の中での体験


計算して書き始めたのでは無いが、結局、十大ニュースになった。人の一年とは、まとめようとすると大体10項目ぐらいになるのだろうか。大したことが無い時でも、心に残る物が10個くらいに分けられるのだろうか。これは面白い発見だ。
こうやって振り返ってみると、今年も悲しい、辛い出来事があり、涙することも多かったが、最後に新しい生命の誕生のニュースがあり、気持ちが明るくなった。この赤ちゃんは今、周りの人に幸せを振りまいてくれているのだ。本当に嬉しい。

2014年12月27日

45 年末のご馳走 / チキンとカニ

ブログに自分の食べた料理の写真を載せるのは私の好みではないが、これだけは特別に自慢したいという物がある。
この10年来、クリスマス前後に姪がローストチキンを作ってくれる。イベントとしてのクリスマスに興味は無いが、クリスマスが近くなると良いチキンが手に入るからだ。ヴァレンタイン近くになると珍しいチョコレートが出るので自分が楽しむのと同じだ。お腹にピラフをたっぷり詰めて、とても美味しく作ってくれる。この姪は私の妹の娘だが、美味しい物好きで料理上手の妹に似て、もう一人の姪と共に料理が得意だ。
ロシアの唄を歌い、ロシア語の翻訳もする石橋幸の事は以前にも触れたが、彼女は、新宿ゴールデン街で「ガルガンチュワ」という、ジャーナリストの立花隆から譲り受けた店を経営している。ラブレーの小説に因んだ店名から想像するに、美味しそうな物を出すのだろうと思う人は少なくない。そのクライマックスが、年末のカニ食べ放題である。店名をもじって「ガルカニ合戦」と称している。石橋はロシア関係の漁業関係者とも縁があるので、そのルートから入るカニの質は高い。肉厚でみずみずしくて、それをお腹いっぱい頂くので、年一回のこのカニ合戦でもうカニは満足。へたにボソボソの貧弱なカニはもう食べたくないくらいだ。これは、かれこれ156年続いているだろうか。
この二つの物を楽しむために、数日前から体調を整えて臨んでいるくらいに年末の楽しみになっているが、カニは日露漁業事情によってはいつ無くなるかもしれず、チキンは姪が結婚したら無理だろう。嫁に行かないのも困るのだが…
楽しめる間は堪能したい。





2014年12月21日

44 〇

前回は長らく更新せず、何人かの方にご心配をかけてしまった。忙しくて書けない時は、せめて〇を書く、と自分でルールを決めて宣言したのに守れなかった。
私のブログなど、どうせ読んで下さっている人などいないだろう、という思い込みもあった。読ん下さっている方が、例え今回指摘して下さった数人の方であっても、これからは約束は守らなければいけないと思う。

2014年12月13日

43 来年ノート / 師走あれこれ

師走に入り、もう半月が過ぎようとしている。師が走るくらいだから、私ごとき者が駆けずり回るのは仕方ないだろうが、時も飛ぶように過ぎていく。
122日「石橋幸コンサート」、123日「東京能楽囃子科協議会定式能」と公演が続き、囃子科協議会の来年度公演のチケットの発売も始まった。「子どものための日本文化教室」の「文様」、「三味線」もあった。
10月に亡くなった花房徹の息子の花房青也のライヴには、応援の意味もあって顔を出した。天才的な父親には及ばないだろうが、青也には父親には無かった魅力的な部分がある。それを生かして、彼には父親の分も頑張って欲しいものだ。花房徹とも同世代で、7月に亡くなったギイフォワシィ・シアター主宰者の谷正雄さんのお別れの会にも出席する。彼ほど寡黙で辛抱強いプロデュサーは他にいないだろう。「何とか助けてやりたい」という風情があったというのが、多くの人の思い出話に上る。小さな劇団を38年間も維持するのは並大抵のことでは無かったであろう。敬意を表すると共に心から「お疲れさま」と言いたい。
明日は、西荻窪「音や金時」で岩切久美のアドリブ芝居がある。彼女は普段は私の仕事を手伝ってくれるスタッフの一人だが、本業の女優として年4回のこのアドリブ芝居を大切にして、ユニークな舞台を作っている。時々、ある大手プロダクションの子ども達のレッスンも引き受けているが、彼女のレッスンを受けた子はオーデションに受かり易いと評判で、レッスン教師としての分量も最近は増えているようだ。本人が楽しんでやっているようなので、それはそれで結構なことではあると思っている。
そのライヴの前に、つい数日前に出産をした姪のお見舞いに行かなければならない。母子共に健康ということで、これも大変結構。新しい命の誕生という話題は人の気持ちを明るくさせてくれる。生まれたこの子からしたら、私は「大伯母」だが、私からすると姪の娘は何と呼べば良いのだろう?あれっ?知らないなあ。今度調べよう。

こんな調子だが、来年のノートはさすがに用意した。ノートはこの10年程はミドリカンパニーの物に決めているが、本当に使い易い。過去にはシステム手帳も何種類か試したが納得いく物が無く、使いこなせず、これにたどり着いた。大きさも厚さも程よくてかさばらない小さめの物だが、スペース的に足りないことはない。ダイアリーとしてはこれで充分だが、私はもう一冊リーフ差し替え自由のA5ノートを携行している。薄いA5ノートでルーズリーフは珍しく、打合せでも調べ物でもどんどん書き込んで、時々ジャンル毎に綴じ直す。これも便利。
ところで、偶然だったのだが、陶芸研究家の森(中島)由美さんもこのミドリカンパニーのノートを使っていて、年末近くなると「来年はどの柄にしたの?」とか聞き合うこともある。つい買いそびれている私に「買っておきましょうか~?」と言ってくれたりしてくれる彼女だが、近頃はご主人もこのノートを使うようになったそうである。お二人は来年はどの柄にされたのだろう?
私はまさに「ラストシップ」イメージの柄を手に入れることが出来た。マリンブルー色の地に碇のイラストが散りばめられている。今の私にはこれしかないだろう。購入した後に知ったのだが、風水的に来年のラッキーカラーは「ブルー」だそうで、特にマリンブルーのような色が良いそうだ。幸先が良いような気がして嬉しいが、それよりも何よりも、ノートに書き入れた事柄をどうやり遂げるかの方が大切なことは分かっているつもりだ。計画を立てただけでやったつもりになってしまうようなお目出度い私は気を付けなければいけない。
















2014年11月25日

42 石橋幸コンサート「僕の呼ぶ声」

石橋幸コンサートが一週間後に迫って来た。リハーサル、スタッフ打合せ、ホール打合せと徐々に具体的になり、緊張感が増して来る。この仕事は、私が最も大切にしている物の一つである。本格的に関わるようになって20年近くなるが、出会えて良かったと心から思える仕事だ。石橋のお陰で、日本人がほとんど行かないシベリアの果ての極北の街マガダンにも行けた。
石橋幸の凄いところは、スターリンの圧政によって閉じ込められていたロシア人さえも知らない唄を、自分の足で拾い集めたことである。ジプシーや囚人、貧しい人々が秘かにしぶとく歌い継いできた唄には情感と力強さがある。底辺に生きる人たちの生活や心の暗闇からたちのぼってくるいくつもの物語の中には暗くても情感豊かな世界がある。
また石橋は、唄はそれが生まれた言葉で歌われるべきだという主義の元に徹底してロシア語で唄うスタイルを通している。それが壁になっていることもあり日本では認める人も少ないが、ロシアでは石橋はその功績を認められ、シャンソンゴーダ特別賞を受賞してクレムリン宮殿で歌った唯一の日本人でもある。だが勿論、日本にも熱心な支持者がいて石橋の唄に感動し、涙を流す。作家の中上健次も石橋の唄と声を認めた一人である。

日本に居ながらも世界各地から様々な音楽が入って来る現代の情報社会であるが、ポピュラーなヒット曲だけが注目されるのが現実でもある。日本では聞くことが少ないジプシーや囚人の歌には言葉を超えた力強さがあり、国や民族が違っても人々の営みには変わりがないことを伝えてくれる。それが日本人の感性にも合うということを石橋の唄を聞いて感じて欲しいものだと思っている。





2014年11月11日

41 〇


ビールやフランクフルトだのドイツは良いけど、ニューヨークはどうだったの、と友人に問われる。
確かにあんなに大騒ぎして行っておいて、報告無しはないだろうと自分でも思う。実際、久しぶりのニューヨークはとても楽しかった。ミュージカル「ラストシップ」も素晴らしかった。それは近々改めてご報告したい。
また、10月予定していたアイテムの整理もまだだ。11月分と一緒に一気にやろうとは思っている。

親しい友人の死で、何もかもがすっ飛んでしまっていた。私は何をする訳でもないが、何か気が抜けてしまっている。こんな風に過ごしていると、一ヶ月なんてあっと言う間なのだなあと改めて実感しているところだ。


2014年11月4日

40 文化の日の散歩


11月3日「文化の日」、思いがけなく休みになった。家でボーッとラジオを聞いていたら青山公園でドイツフェスティバルをやっていて、本格的なドイツビールやフランクフルトソーセージが楽しめるとのこと。他の事も言っていたが、そのことしか耳に入らない。食文化も文化である。
外は気持ちの良い秋晴れで、暑くもなく、寒くもない。歩くにはもってこいの気候だ。青山公園は歩けない距離では無い。むしろ歩いていくとビールが美味しく感じるくらいの距離ではある。
思えば、今春から右膝が不調で、緑の美しい季節には転ばないように下ばかり向いて歩いていたような気がする。暑い季節にはタクシーに乗ってばかりいた。このところやっと、平坦な道を歩く分には苦にならないくらいに回復していたので、歩こうと思っていたばかりである。元より歩くのは好きだ。
外苑を抜けて、青山一丁目方面から行こうと決めて歩き始めたが、しばらく運動不足だったことを感じることも無く、風が気持ち良い。外苑のイチョウ並木は少し黄色く色付き始めている。この辺りで上着を脱ぐくらい少し汗ばんで来た。本格ビールが美味しいぞ!と青山公園を目指す。目論見通り、公園に着いた頃は丁度いい感じの喉の渇き具合。あまり大きくない公園なので小じんまりとやっているのかと思っていたら、どこから聞きつけてやって来たのか沢山の人!売店にも列が出来ていて、少ない列に並ぼうかという誘惑(早く飲みたい!)に負けそうになったが、せっかくなので吟味して美味しそうな店に並び、ビールとフランクフルトをゲット。勿論、ザワークラウトも忘れない。その美味しかったこと!
デザート類は何も売っていなかったので、帰りに青山辺りのカフェに寄ろうと(どこまでも食文化の日)、帰りは違うコースで家路につく。公園を出ると通りを挟んで向かい側にある「新国立美術館」が異彩を放っている。ここにも何回かは来たが、私にとって足繁く通うような魅力的な企画内容が少ない。青山墓地(既に公園のようなもの)を通り抜けて、根津美術館、骨董通り、表参道を歩いて帰宅。
青山では路地に入ってウロウロしたので、都合2時間も歩いた。驚くほど沢山の店が増え、また驚くほどの人が集まって来ている。街中に突然お城が出てきてビックリ。お城ではなくて「…大聖堂」という名の結婚式場だという。教会でもない大聖堂でどんな人達が結婚式を挙げるのだろうか。今更ながらだが、今や結婚式は儀式ではなくイベントなのだろう。などと、様々な趣向を凝らした新しい店を見ながら、以前は青山はもう少し静かで大人のお洒落な街だったなあと感慨にふける、そんな文化の日であった。










2014年10月28日

2014年10月21日

38 さようなら徹ちゃん

俳優で演出家の花房徹が、10月7日朝、永遠の眠りについた。享年63才。これからまだまだ俳優として味の出る年頃だった。亡くなってもう半月も経ってしまったが、私としては、彼とのつき合いの長さと近しさから、まだとても客観的に彼の死を見つめることが出来ない。思えば40年近いつき合いだった。
最初の出会いは、立動舎公演「春のめざめ」(ヴェデキント作)。若者の性がテーマの芝居で、演出の福田善之はエロティックな場面をいくつか作り、花房もお尻をむき出しにして客席の方に突き出すシーンがあった。お茶目なイメージはその頃からだ。
花房はエノケンの再来とも言われ、フランスのアビニョン公演ではルモンド紙に「チャップリンのよう」と評された。軽妙洒脱、自由闊達な演技に定評があった。
だが、彼は「主流」というものに背を向けていたので、その演技力が社会的に広い所で評価されることはあまり無かった。その代わり、熱狂的な支持者もいた。そして、何よりも舞台を大切にしていた。殊に息づかいが伝わるような小さな空間に拘った。そういった小さな空間での、病が発覚してからの舞台には目覚ましいものがあり、死を身近に感じてからはより自分の目指すものに近づいたような気がする。
最後の舞台は息子との二人芝居だった。今思うと、声も出ていて、その一ヶ月後に亡くなる人の演技では無かった。そんな時期なのに、相変わらず飄々として哀愁があって、とても彼らしい舞台だった。その日集まった人達の記憶に長く残ることだろう。

今年は、舞台美術家の朝倉摂さんも亡くなった。私は朝倉さんに誘われて立動舎に入ったので、朝倉さんは花房との縁を作って下さった方とも言える。
また、斎藤晴彦さんも亡くなっている。花房は晴彦さんととても仲良しだった。もう十年以上前だったかと思うが、グローブ座の帰りに「大久保が今スゴイことになっているらしいから、見て帰ろうぜ」と晴彦さんから誘われた花房がホテル街に佇むアジア系の女性達を興味深く見ていたところ、「徹!きょろきょろするな!さっさと歩くんだ!」と叱られたそうである。「だって、見ようって言ったのは晴彦さんだよ。見ようって言ったと思ったら、見るな!だぜ」と不満顔の花房。二人で居るだけで漫才のようであった。
あの世への道すがら徹ちゃんはあの大きな目を見開きながら、興味津々とばかりに道草しがちかもしれない。晴彦さんが「徹、トール!きょろきょろしないで早く来い!」って言ってくれるだろうか。
お二人の他にも花房と親交があった演劇人が、このところ何人も旅立たれた。
花房とも古くからのつき合いの女優の中山マリが言う。「向うの方が何だか楽しそうよね」
そうに違いない。まあそう遠くない将来に私達も行くことになるだろうから、しばらく待っていて下さい。それまでは、徹ちゃんの分まで精一杯生きましょう。
寂しいけれど、この世ではもう会うことは無い。

ひとまずは、さようなら。

2014年10月12日

37 〇


取りあえずは。

2014年10月3日

36 〇


NYより無事帰国。帰りの飛行機でよく眠り、リムジンバスでも爆睡、帰宅後も熟睡したので、今日はすっかり元気で仕事を始めた。

2014年9月25日

35 〇


土浦薪能も無事に終わった。12月2日紀伊國屋ホール「石橋幸コンサート」のチラシ、ポスター等の印刷入稿も済ませた。目の回るような日々だったが、明日からはニューヨークだ!
ミュージカル「ラストシップ」の初日の切符も取れている。

2014年9月18日

34 トランクへ入れる物-その6 / 夏服

例年9月には、夏服を保管に入れ春秋物を保管から出している。以前下北沢に住んでいた時に近くに白洋舎があり、この保管サービスを知り、以来25年程利用している。何よりも保管状態が良いことと、収納場所に限りある者にとっては便利なサービスだ。
保管クリーニングに出す前に思い切り夏服を整理した。やはり何年も着ていない物がまだあった。整理の前に同じアイテムの物を全部出してみるのが整理の基本ということで、ベッドの上に夏物全部をドサッと重ねる。三年前にあれだけ大整理したはずなのに116点あった。
それをまた「ハレ、ケ、予備」の三つの観点から選り分ける。まだ現役中なので、更に現役中、予備と二分野を加える。それぞれに、アウター、インナー、ボトムスの三種類に分ける。3×3×3=27点に絞らなくてはならない。夏は汗がちなのでインナーはそれぞれ二倍にしよう。それでも合計36点。かなりのスリム化だ。引退後、最終的にはトランクに12点。やれるかどうか、残した物でどのくらいもつか、来夏分かるだろう。

ジャズピアニストの渋谷毅さんは、毎日同じ格好をしている。洗い晒しのダンガリーシャツにジーンズ。寒くなるとその上にセーターを着て、更に寒くなるとコートを着てマフラーを巻いたりする。冠婚葬祭もそれで行くという。勿論、ステージもそれでつとめる。演出上、黒い物を来て欲しいことがあり、恐る恐る尋ねると、用意してくれれば良いよと快諾。拘りつつも柔軟な人だ。
ピアノの無い劇場で演奏をしてもらう時に、アマチュアが借りるようなエレピで演奏をしてもらわなくてはならず申し訳なかったのだが、嫌な顔もせず弾いてくれ、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。そんな凄い人だから、毎日同じ格好の渋谷さんを見ていると、彼にとってこのスタイルは僧の法衣みたいな物かもしれないと思った。自分にとって大事なもの、究極のものを見つけた人は、そのこと以外は何の拘りも無く、その道をひたすら淡々と歩み続けるのではないだろうか。
そんな風に生きられたら幸福なのだが、凡庸な私はそんな人達に憧れているばかりである。



2014年9月3日

33 〇

能楽座自主公演という大仕事も無事に終り、8月もあっという間に終わった。
後は9月10日の東京能楽囃子科協議会公演と20日の土浦薪能を済ませれば、いよいよニューヨークだ!これを楽しみに頑張るしかない!

2014年8月25日

32 トランクへ入れる物-その5 / 辞書 /本の処分-1


8月の整理アイテムは、辞書と英語関係の本だ。
本は油断しているとどんどん溜まってしまう。処分し難い物の一つでもある。三年前に駒場を出る時に、まず収納場所を無くそうと思い、大きな本棚を二台処分して、本はダンボール6箱にまで減らした。だが、三年経った今春の引越しの際には新たにまた6箱増えていて、がっくりした。増える理由は、多忙で図書館に行く時間が無いことと仕事の資料が多いことだ。
現役引退後は図書館に通うつもりだ。仕事の為の資料も不要になるし、好きな物だけ読もう。結局、現役中は増えるのも仕方ないだろうが、せめて細目に整理しようと思う。
本の中でも捨て難いのは辞書だと言う人が多い。辞書だけは絶対捨てられない、と言った友人もいる。誰でも、自分の本の中で一番手に取る機会が多いのは辞書だろう。自分の知の元でもあり、自分の手癖が付いていて、愛着はひとしおである。あの独特の紙(インディアン紙というらしい)の手触りも捨て難い。それを今回は処分しようという訳である。
辞書が無い生活など考えられないので、代わりに電子辞書を購入した。これには持っていた辞書は全部入っているし、英会話や歳時記、小説まで入っている。大きさはほとんど文庫本一冊だ。処分する辞書類を並べてみると、結構な場所を取り重いので、この差は大きく、片付け満足度は大である。ただ、事務所では相変わらず広辞苑をめくっている自分がおり、自分ながら苦笑している。
今回は同時に英語関係の本も処分しようと思う。英語の本もやっかいだ。わずか10日間で~、5行で分かる~、たった100単語で~、これならすぐ喋れる、今度こそペーラペラ!というようなうたい文句につられて、つい買ってしまう。ただ聞くだけというやつにもまんまとやられている。しかも二度もだ。まだカセットテープの時代に一度試して失敗したのに、それを忘れてまたやってしまった。楽ちんの誘惑に負けてしまう私がここにもいる。もとより通訳や翻訳をしようという訳では無く、好きな曲の歌詞や映画の台詞がもうちょっと理解出来たらいいなあというような程度のことなのだが、楽には身につかないものだ。
好きな映画の台本を読んだりもしたが、勉強とは繰り返さなければならないものなので、どんなに好きな映画でも一本を何度も観るよりなるべく沢山の映画を観たい私にはこの勉強法は向かなかった。小説もしかりである。サリンジャーもオースターも頓挫した。生活に密着した物だったら身に付き易いだろうと思い、起きてから寝るまでの英語のテープを睡眠学習よろしく寝る時に流したりもしたが、大概起きてから電車に乗るくらいまでで意識が無くなり、会社までたどり着くのは稀だった。旅行の英会話というのも聞き流しながら眠りについたが、飛行機内で飲み物を頼んだりするくらいまでが関の山で入国審査まで行くのは稀、無事に入国して食事をしたり買物をするところまでは行かず、まるで英語が子守唄のようでよく眠るばかりだった。

これから、楽をせずに頑張って英語の勉強をしたところで大したことは無いだろう。その分の時間を有効に使った方が良いのは明らかである。例えば、面白い映画を観るとか。
買ったばかりのピカピカの電子辞書には英会話の教材も何本か入っており、この何十冊の英語本を処分したところで困ることは無いのだ。



2014年8月17日

31 〇

19日、30日、31日の公演準備で多忙。先週も二日間、催しがあり。
あっという間に8月も終わってしまいそうだ。

2014年8月8日

30 トランクへ入れる物-その4 / 靴

7月の整理アイテムは靴だった。
やはり何年も履いていない靴が沢山あった。この頃は楽な靴ばかりを履いているような気がする。おまけに最近は膝が不調ときているから尚更である。
でも、それでは駄目なんだ!と気合を入れる友人がいる。彼女は何十年も体型が変わらず(変わらないようにしている)細身のジーンズも穿きこなしている。何事も自分に気合いを入れる派で化粧水もパンパンと顔に叩きつける。甘やかしてしまっては衰えるという主義だ。若い頃と変わらない体型でハイヒールをカツカツッとさせて闊歩している。50才を過ぎても赤いハイヒールで舞台を走り回っていたティナターナー、カッコよかった! オノヨーコも70才を超えてもハイヒールが似合っている。かっこよさより楽を選んだ、自分甘やかし派の私はとてもそんな真似は出来ない。

冠婚葬祭兼用オールマイティの5センチヒールのプレーンパンプスを一足残したら、もうヒール物は要らない。ハイヒールにはこれでお別れ。とにかく履き心地最優先、脱ぎ履きも楽な物が良い。立ったまま履いたり脱いだり出来たら最高。そういう意味でも、この数年愛用しているのが、AKAISHIのクロッグだ。最初のきっかけはスタッフの一人から薦められたことだが、履いた途端にその履き心地の良さに驚いた。足にぴたっとすいつき履いていないように軽い。聞けばなるほど、人間工学的にも考慮されている物だそうだ。一時はこればかりを履いていたので周りの人からも注目され、私の影響であっという間にスタッフ、友人、家族(70代の叔母にも!)など周りにも拡散した。ある日居酒屋へ行った時、三和土に同じ靴が並んだのには笑った。だが靴とは不思議なもので、同じ靴でも自分の物は分かるものだ。ましてや履いたら一瞬で気がつく。酔っぱらって他人の靴を履いて帰ってしまったというような話を聞くこともあるが、酒で数々の失敗をしている私でさえ靴を間違えたことは無い。
ところで、このクロッグが良品を扱うことで定評がある「通販生活」でも取り扱われ出した。良い物が広がることは好ましいことだが、ついあの居酒屋の光景が浮かび苦笑してしまう。

バッグの時に決めたルール「ハレ、ケ、予備」の観点で選り分けてみたら、計12点になった。やはり最後はこれでも多いだろう。捨てられなかった物としては、残す物のパターンにあてはまっていてまだ新しい物だが、これは予備の予備として残しても、何か壊れたり古くなってしまった時に交換すればいずれ消耗するだろう。そのくらいはまだ生きる予定だ。






2014年7月30日

29 能楽座公演


私の仕事の内でその量と責任の比重が大きものに、能楽座の制作がある。
能楽座は各流各派の当代一流の能楽師によって流派の枠を越えて結成され、人間国宝が何人も所属する稀有な団体である。能という伝統芸術の真の継承と創造をめざし、日本の各地で、特に普段、能や狂言を鑑賞する機会の少ない地方で質の高い能と狂言を公演することに力を注いでいる。                                 
そういった地方での活動の他に、年一度の自主公演も行っている。それが、来月8月31日に国立能楽堂であるのだが、そのDM発送を行った。1200枚、アルバイト4人で丸一日かかる量だ。
この公演は一般の奏演形式に囚われないプログラムを組むので、どうしてもそのこだわりの為にチラシの完成が遅れる。待ちくたびれたお客様から問い合わせもあり、制作をする身にとっては毎年やきもきさせられるが、活動の目指すところを考えると急かしたりすることは出来ない。
「一流の演者に通の客」といった構造で、私が関わる少し前まではこのDM会員だけで能楽堂のキャパはすぐ埋まり、キャンセル待ちが出るような公演であったらしい。最近はそうもいかず広報にも力を入れなくてはいけないのだが、それにしても率の良いDMである。
先日はベネッセ問題など個人情報流出が問題になったが、個人情報としての質を考えるとこの名簿は大変な物なので、軽々しく扱えない物である。勿論、どんな名簿も慎重に扱われるべきだが。
いずれにしても、このように案内が届くのを心待ちされるような公演を制作したいものである。


2014年7月23日

2014年7月16日

27 片付けなんて、ほめられたものじゃない?!

ブログを始めることで、いわば「片付け宣言」をした私に対する友人たちの反応が面白い。皆大人だから露骨には言わないが、呆れていることだけは明らかだ。どうせ出来ないであろうという冷ややかさを感じる時もある。世の中は「断捨離」などとか、雑誌、テレビでは常に取り上げているほどだから、ある意味片付けブームだと思っていたので、私の周りの人達がこんなに片付けに対して拒否反応を示すのが不思議なくらいである。
色々と言われたが、極めつけは、友人Hの言葉である。「そんなことをしたら、あなたが死んでしまうんじゃないかと思って…」 死を予感した人間が、身辺整理をする話はよくあることではあるが、そこまで飛躍するか!という感じである。私は死にません! いつか死ぬ時まで、快適に楽しく生きるために身軽になるのです。さっぱりするために垢を落とすのです。

舞台女優、歌手であるIは、普段は着なくなった服が時代考証や役柄によって役立つことがあるから、衣服類は捨てられないと。靴もアクセサリーもしかり。翻訳家でもあるから本も山のようにある。彼女はある時、片付けはもうしない!と決心し、宣言をした。彼女も独身なので何かあった時に他人に迷惑をかけたくないという思いはあり、その課題に関しては「片付けにかかるお金を残す」という結論を出して、信頼する若者に託しクリアした。調査をしたうえで、200万もあれば良いんでしょうと。これでもう片付けのことなんて考えないんだと言うのを聞いて、それもありかなあと私もちょっと傾いた。しかし、私の「トランクひとつ」願望は、結構年季が入っているので、結局そちらの考えに行くことは無かった。

40代の友人Kさんは「片付けなんて無理、無理!全てお気に入りの物に囲まれているので、何一つ捨てられません!」と言う。これは私もそうだったので、よく分かる。40代ともなると経済的にも余裕が出来、目も肥えて、良い物も身の回りに増える年代だから、そう言うのも無理もないだろう。こだわって求めた物に囲まれた生活は幸福だ。まだ若い時は充分に楽しめば良いと思う。

「どう?トランクひとつに出来た?」と友人Sは問う。さすがにこの短い間には無理だ。それにガラクタとは言え、これらの物は何十年と生きてきた証しでもあるので、ポイポイと行かない時もあるのだ。私にとって片付けとは、嫌いな物を捨てることでは無く、好きな物を残すことなので、無理をせず楽しみながらやろうと思う。
そうこうしている内に開かずのダンボールを一つ見つけた。まったく着ないであろう洋服だったので早速処分する。気がついた時にすぐやること、先延ばしにしないことも大切だ。

2014年7月6日

26 読書会 / およすく会

今関わっている二つの読書会のもう一つの会は「およすく会」と言う。田中順子先生を講師として「源氏物語」を原文で味わおうという会である。会の名称は、桐壷の巻の【きよらにおよすけたまへれば】から。古語では「おゆ(老ゆ)=成長する」と「源氏物語」から知り、歳を重ねることは成長することなのだと、原文の古語に事寄せて名付けた。
読書会は今年の春に13年目に入り、毎月第一水曜日、文京シビック内の講義室で、田中先生の解説本をテキストに2時間半みっちり読み込んでいる。現代語には失われてしまった日本語の深い味わい、美しさを求めて、細部にこだわり、ゆっくりじっくり第10巻「賢木」の卷まで読み進んで来た。通常の読書会に比べたら遅い歩みであるが、豊かで奥深い「源氏物語」の世界を読み飛ばしてはもったいないという気持ちでやって来たのだ。全54帖、まだまだ先は長いが、せめて15巻「蓬生」までは行きたいものだと思っている。
参加者達の事情から、読書会の開催が夜から昼に変更になって以来、現役の身では平日の昼間に仕事を抜け出すのは容易では無く、発起人でありながら欠席がちで気が引けていたが、「賢木」もいよいよ終わりというので、先日は時間を作って参加した。
読めば読むほど、紫式部は天才だと思う。あれだけの長編なので登場人物は多いが、一人として同じ人物造形が無くキャラクターが見事に描き分けられているし、読者を次から次へと引き込んでいく小説としての構成も素晴らしい。また、多くの国の言葉に翻訳されたこの物語は、民族、国家を超えて世界中に知られており、紫式部は世界の偉人の一人と認められている。
しかし、こんなに有名な小説であるにも拘らず、これほど誤解されている小説もないだろう。私自身もそうだったが、プレイボーイの女遍歴の話なんて嫌いだ、と思っている人は多いと思う。それは、現代作家の翻訳の影響に他ならない。まるで性愛小説のような現代語訳が多いが、それはまったく原作を理解していない証拠である。現代語訳を読んで、「源氏物語」をこの様なものであると誤解した読者は、よほどのきっかけが無いと再び「源氏物語」を読もうとしないのではないだろうか。「源氏物語」で描かれているのは「心」であって、性描写など無いのだ。現代語訳では決して伝わらない「源氏物語」の魅力は、原文を読むことで初めて分かるのである。
今でこそこんなことを言う私だが、原文を読むまでは、その深く限りなく豊かな世界を知らなかった。こういう読み方を教えて下さった田中順子先生には、心から感謝するばかりである。
「源氏物語」を知ると知らないとでは、人生そのものの味わいが違っていたであろう。

2014年6月29日

25 トランクへ入れる物-その3 / バッグ類

今日は久しぶりの完全オフだった。この4月から週1休みとして月4日くらいは休もうとやってきたが、結果的には月2の完全オフに半休3、4日で、月4日は休んだことになる。上出来だ。意識的に休むようにして良かったことは、例え少ない休みでも「休んだ」という認識が残るので、休んだような気がしなかった以前の休みとは充足感が違うのだ。
 
さて、我が命題である「トランクひとつ」への整理は忘れていない。今月はバッグ類と決めてあれこれ考えてきたが、今日はいよいよ決行だ。何か片付けをする時はルールを決めないと収拾がつかなくなるので、自分なりのルールを決めた。「ハレ、ケ、予備」の基準で3点ずつ選っていくことにしたのだ。まずは、トランク行き(最後まで使う)の3点。まだしばらく(10年くらい?)は仕事をすることになるだろうから、その現役中に使う物3点、臨時(旅行、冠婚葬祭等)に使う物3点、計9点。何か壊れたり古くなってしまった時だけ新しくする。常に9点で、かなりのスリム化だ。
まだ旅行にも行きたいし、行けるので、一週間用くらいの旅行ケースは必要だ。お土産など荷物が増えた時用のたためるトートバック、観劇、食事等のお出かけ用の小バックもその中に入れておこう。仕事用には、沢山入るトートバッグは便利だが、仕事柄、書類等紙類を持ち歩くことが多いので重過ぎて、何年か前に肩を痛めてしまい、以来、ハンドバッグとブリーフケースに分散して持つことにした。最後には、改まった場所にも大丈夫なオーソドックスな黒のハンドバッグ、洋服にも和服にも合うビーズの手提げ、軽い2ウェイ(ショルダー、リュック)バッグの3点になるはずだし、それで充分な気がする。これでどこまでやれるだろうか。今までは、素敵なバッグでも見かけるとすぐに買ってしまったものだが、どうだろう。物を少なくしてシンプルに生きる満足感がその物欲に勝るかどうか。
でも、こうやって処分する物を見てみると、ろくに使わなかった物も多い。これからは選び抜いた物をとことん使い尽くそうと思う。使い尽くして、壊れた時に改めて新しい物を買いたい。数はこれで決まり。

ところで、どうしても必要とは思えないが、処分出来なかった物が一つある。それは、トニー賞にノミネートされた者だけに与えられるトートバッグである。
NYで20年以上アーチストとして活躍している友人のMさんからもらった物だ。Mさんは石岡瑛子の遺品整理を手伝い、その時に譲り受けたこのバッグを「舞台製作をしているあなたに相応しいと思って」と私に譲ってくれた。トニー賞なんて! 考えたことも無いし、目指したことも無い。これからも縁は無いだろう。これは、ある意味、相当貴重品だ。日本人では数名しか持っていないだろう。確か昨年、日本人で初めて受賞したプロデューサーがいたと思うが、いずれにしても希少価値ではあり、あだやおろそかに処分は出来ない。もしここに、演劇、ミュージカルでブロードウェイを目指す若者がいたのならば、夢と共に譲りたいくらいである。
トニー賞といえば、つい先日の受賞式にスティングが新しいミュージカル「The Last Ship」のパフォーマンスで出演していたが、舞台はいつから始まるのだろう。楽しみで楽しみで仕方がない!

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2014年6月21日

24 れれれの会 / 深沢七郎「楢山節考」

読書会「れれれの会」の今回のテーマは「楢山節考」で、発表者はKさんだった。Kさんはいつも素晴らしい発表をして、メンバーから「あまりすごい発表をすると後がやり難いから、ほどほどにしてね」と言われるような人だ。「連合赤軍事件を考える」の時は、彼女の仕事関係でもある映画からのアプローチで始め、参考文献35冊を読み、心理学的に密室状況下の問題まで言及した。幸田文「きもの」の時は、彼女の趣味でもあるアンティーク着物のコレクションを持参し、色彩、手触りを実際に確かめて、明治時代に生まれた主人公の着物へのこだわり、生き方を検証した。
ことほどさようにあまりのこだわり故に、発表の前日は徹夜をしてしまうとのことだった。そんなこともあり、真面目な津田先生まで「徹夜などして頑張らなくてもよし、適当にやって下さい」などと、普段の先生のボキャブラリーに無いことをおっしゃる。Kさん、今回は「二時間は寝ました!」と。しかし、やはり、レジュメは18枚!そして、素晴らしい発表で、発表後の討論も活発だった。
「楢山節考」は私も今まで何度か読んでいる。その度に新しい発見と感慨がある大変な名作だと思う。津田先生も近代文学短編小説の三大傑作の一つであるとおっしゃる。武田泰淳、伊藤整、正宗白鳥、等、作家達も絶賛している。
親を老人ホームに入れることなどを「現代の楢山節考」と例えられることが多いが、これは的外れな例えである。「高齢社会への警告」などという捉え方も見当違いだ。「楢山節考」で深沢七郎の描いている世界はもっと深い。歴史的にも民俗学的にも、現代の倫理観では捉え切れない死生観がそこにはあるように思える。私は「人は自ら死んではならない」と最近まで思ってきたが、人間だからこそ自らの死を選んでも良いのではないかとふと思うことがある。「楢山節考」のおりんが自ら進んでお山行きを願うのはそれとはまた違うが、社会のルールに従っているだけではない死生観がそこにはある。終章の、凄惨なはずのお山の風景が何故か美しく感じられるのは、雪の効果と共に聖俗を超えたおりんの澄みきった精神性がそこにあるからに違いない。
映画でも、木下恵介版、今村昌平版共に、ラストシーンは同じ解釈だったと思う。内容はまったく対照的な捉え方であったが。映画では他に、新藤兼人の「生きたい」の劇中劇としての吉田日出子の老婆が印象的だった。彼女の女優としてのキャラクターと相まって、イノセントで神々しい姿が忘れられない。
能「姨捨」はもっと聖俗を超えていて、老人遺棄の悲惨さはない。月の光の精のような透明度の高い老女が舞うことで、浄化された清らかな世界を見せてくれる。無常のこの世を脱し、解脱した者の神々しさがそこにはある。私の尊敬する近藤乾之助師の「姨捨」では客席ですすり泣きがおきた。捨てられた悲しみというような俗っぽい感情では無く、人の世の無残さ、聖俗超えた透明な哀しみ、その崇高性に対する感動の涙だったように思える。
自然死とはどのような状態までを言うのであろう。現代は医療も発達し、望まない延命もあり得る。「ぴんころ」が理想の最後とも言われている。私は望まないことはされたくないので、自分の希望を書き残したが、果たしてどうなるのか、その時にならないと分からない。

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2014年6月12日

23 甥に引かれて善光寺参り

甥が長野市で結婚式を挙げるというので、会場が善光寺近くともあり、何十年ぶりに善光寺にお参りに行って来た。一生に一度はと喧伝されるほどの名刹であるので、長野県人としては小学校の間に一度は遠足で行くところである。私たちの年は御開帳と重なったので、日帰りでは無く一泊だった。翌年予定されている修学旅行に先んじて、初めて友達と外泊出来る興奮と楽しさだけが記憶に残っており、御開帳の有難さは一切覚えていない。まあ小学校5年生なんていうものはそんなところだろうが、その時有難さ感じているくらいだったら、今の私はもっとマシな者になっていたに違いない。
久しぶりに訪れた善光寺はやはり立派だった。山門も仁王門も堂々としている。
線香をあげ煙を身体に頂き、本堂に入る。すぐの所に、びんずる尊者が鎮座している。通称「おびんずる様」と言って、病人が自らの患部と同じところに触れ、尊者の神通力にあやかって治して頂くという信仰である。ここのところ右膝が不調な私は右膝をすりすり、せっかくだから(?)ほかの部分もなでなで。おびんずる様は何百万という善男善女に撫でられたのだろう。頭の天辺から足のつま先まで隈なくぴかぴかである。庶民信仰とはこういうものだろう。
善光寺参りの中で特筆すべきは「お戒壇巡り」である。これはさすがに昔の10才の私の記憶にもかすかに残っていた。御本尊様の下、一寸先も見えない暗闇の中を手探りで進む感覚はとても印象深い。お戒壇の中の暗闇は無差別平等の世界をあらわしているという。確かに暗闇の中では、日常の様々なとらわれの心を離れ、手探りで一心に出口に向かう。そこには手の感触といつか見えるはずの出口の光を求める心があるだけなのだ。それはどんな人間にとっても同じはずだ。

善光寺では、勿論、甥達夫婦の幸福も祈ったが、その結婚式も無事に終わった。
輝かし過ぎる新郎新婦のプロフィールの発表も無く、泣かせの演出も無く、やたらとおしゃれに凝り過ぎず、オーソドックスで笑いのある心温まるとても良い結婚式だった。衣装も最近は芸人みたいにピカピカなのが多い中で、地味目だが品があって二人とも背が高いので却って引き立っていた。泣き虫だった昔の甥を思い出してはよくからかっていたが、立派になったものである。
二人は青年海外協力隊で派遣されたモンゴルで知り合ったので、その共通の友人たちが受付を手伝ってくれ、民族衣装を身につけ受付周りもモンゴル色豊かに設えてくれていた。
モンゴルの音楽、馬頭琴とホーミーの演奏者も駆けつけてくれ、モンゴル色に彩りを添えてくれた。馬頭琴はとても縁起の良い楽器とも聞く。甥夫婦に幸あれと願いつつ、遥か草原の音に耳を傾けた。

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2014年6月4日

2014年5月26日

21 れれれの会 / 漱石を読む

読書会「れれれの会」のメンバーも発表のテーマもユニークで、文学からかけ離れていることが多く、講師である津田先生も「この会は何が出てくるか分からない」と呆れるほどである。だからという訳では無いとは思うが、先生の他の読書会と合同で隔月に夏目漱石を読むことになった。
「猫」とか「坊っちゃん」というおなじみの物も改めて読み解こうということだが、あまり知られていない評論も読んでみようと、先生の計算では4年かかるそうだ。テキストは岩波文庫。初回である今回は先生の講義という形で「文芸論集」を読んだ。たっぷり二時間、久しぶりに講義を聞いた!という感じだった。ゼミ形式だから、その内に発表の順番が回ってくる。これが結構の緊張感で、この齢になると新鮮ではある。
漱石は大体の人が中学、高校、大学と十代の頃にまず一度は読む作家ではないだろうか。私の場合、40才前後に再び、それこそ津田先生のゼミで一年を通して漱石を読んだが、大変新鮮で若い頃とは違う感動を覚えたのが忘れられない。その少し前に丁度、森田芳光監督の「それから」を観て、原作を改めて読んだばかりでもあり、映画の素晴らしさも相まって漱石に再び注目していたことが下地にはあった。森田芳光は私と同年だ。30代後半にふと漱石の世界に立ち戻りたいと思うのは、それだけ漱石が時代を超えた偉大な作家である証拠でもある。読む年齢によって感じるところが違うだろし、一生の内でもう一回読む機会があっても良いかなと思っていたので、年齢的にもこの機会なのだろうと思う。こんなチャンスはめったにあるものでは無いので、しっかり味わいたい。

ところで、昨日は何があったのだろう。明大の前にズラッと警察車両が並んでいて、警官の姿もちらほら。こんな光景は何十年ぶりだろうか。昔と違うのは、大学の建物がやたらときれいで書きなぐったタテカンも無い。行き交う学生達の服装も清潔でおしゃれで、物々しさには無関心で行き過ぎる。今更ながら、隔世の感である。

漱石

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2014年5月17日

20 トランクへ入れる物-その2 / 化粧品

この4月から、一ヶ月一アイテムくらいの目標で整理を始めたが、今月は化粧品にしようと思う。若い頃と違い、洒落っ気も無くなり随分とシンプルになってきているので、化粧品は片付け易い物の一つだ。
三年前、駒場の一軒家を出る時に、全ての物の大整理をした。口紅もマニキュアもその時に何十本も捨てたのに、まだそれなりに残っていた。若い頃は、服装やその日の気分に合わせてまめに塗り変えていたものだが、今やその余裕が無い。今はマニキュアは爪を保護するのが目的みたいになっているので、透明な物と薄いピンクがあれば充分だ。口紅はピンク系とベージュ系の薄いのと濃いのとを小さなパレットに入れておけば、組み合わせでそれなりに色は作れるから、ほとんど間に合うだろう。
そもそも、30代中頃からファンデーションはぬらないで、眉、アイラインを描き、口紅を塗るだけの化粧をしてきた。「化粧は老化を際立たせる」と、ある時気がついたからだ。周りを見れば見るほどそれを確信した。特にファンデーションの厚塗りはいけない。「ヒビ」が皺の存在を目立たせる。若い頃の流行を引きずったブルーやグリーンのアイシャドーも弱った目尻が強調される。それに肌を痛めそう。以来、ファンデーションをつけなくとも良い素肌作りを目指したが、この齢になると見た目でその効果のほどを云々するのは何とも難しい。そんな私も着物を着たりフォーマルな服装をする時は、パウダーファンデーションをぬり頬紅をはたいたりするが、その時は肌が重いような気がする。すっぴん肌に風を受けるのは気持ち良いし、汗もしっかり拭け、思い切り笑える。
これからもまだハレの場所はあるだろうから、その為の化粧品は2、3残しておくとして、普段はペンシルと口紅以外は要らない。小さなポーチで充分だ。化粧品全部入れるにしてもそんなに大きなポーチは要らない。
化粧水は手作りの物。漢方医に教えてもらった物を自分なりにカスタマイズした。材料は全て食べても安全な物なので何よりも安心だし、シワ、シミにも効果があるような気がする。歳をとると出来る小さなイボも消えたと妹も言っている。基本はこの化粧水一本だけだが、乾燥している時や、たまにファンデーションを塗る時の下地の為に乳液も一つだけ用意している。顔そり時にも使い、便利な一本だ。基礎化粧品はこの2本で充分。
香水はもう不要かと思うくらい最近はめったにつけないが、残っている物だけでもたまには気転換に使ってみようかと思う。終わったら、もう買い足さない。今までで一番使ったのが「シャネル№19」だ。マリリンモンローはセクシーさのイメージと共に№5をすっかり有名にしたが、№19は爽やかで清潔感がある匂いで好ましい。トップノートもラストノートも良く、私の体臭にも合っていたようだ。私が19才の時に発売され、誕生日が19日でもある私は数字のごろ合わせも気に入ってすっかり愛好者になった。「カボシャール」は30代後半くらいから使い始めただろうか。「強情ぱり」という意味の名前も気に入って、その名の通りキリッと強い感じがするので、№19では物足りない時や、気が張る打合せの前などには気合いを入れる為にそっとつけたりしたものだった。

風呂用品に関しては、これほどシンプルには出来ないだろうという自信がある。極端に言うと石鹸一つあればそれで良いのだ。泡たてネットでふんわりと泡をたてて、それで顔も身体も髪も洗う。この石鹸は、従妹が子どものアトピー性皮膚炎に悩み、研究して作ったハーブ石鹸だ。
髪も!?と驚く人もいるが、よく泡立てれば洗い心地にまったく問題ない。すすぐ時と乾かす時にキシキシするが、乾いてしまえば同じだ。多くの市販のシャンプーなどは滑らかにする為とか良い匂いをつける為に化学合成物質を使う訳だから、むしろ多少のきしみ感などには「身体に良い物を使っている」という満足感の方が勝るのだ。
タオルは要らない。手のひら洗いだ。手のひらで優しく優しく、自分の身体をこんなに労われるのは自分だけだ。身体の異変に気がつきやすいのも手のひら洗いの良いところである。世の中にはバスタブにゆっくり浸かるだけで石鹸を使わない人もいるくらいだ。いずれにしても、石鹸をつけたタオルやブラシでゴシゴシこするのは皮膚には良くないような気がする。ほんのたまに背中をこすりたいことがあり、その時は柔らかいブラシでそっと「痒い所に手が届く」ようにしている。
まとめて写真を撮ってみたが、この少なさが嬉しい。これに満足している自分にも満足だ。

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2014年5月7日

19 思いがけない母の一言 / 故郷の春

「私はどういう人間ですか」と母が問う。ふいをつかれて私は困惑し、平静さを装いながらも「名前は・・・・・といって」と母の名前を言った途端、「そんなことは分かっている!」とぴしゃり。アルツハイマーの症状がまた少し進んだ母の口からは、以前の母のボキャブラリーには無かった本質的な言葉が出る時があり、驚かされる。禅問答のようになる時がある。
それにしても「どういう人間か」と訊かれてまず名前を言うとは、野暮ったい答だったなあと我ながら残念である。それは母が理解するとかしないとかの問題では無い。どうせすぐ忘れるからどうでも良いということでもない。私だったら相手にどんな答えを期待するだろう。これは結構深い問いである。
この連休を利用して、叔母二人と妹二人とで母を老健から連れ出し、野辺山の山荘に泊まった。この山荘はお料理が美味しいので、地元の人も宴会などに使うことがある。摘みたての山菜の春の緑が目にも嬉しい。母も「美味しい、美味しい」と沢山食べてくれた。
部屋から八ヶ岳がよく見えて、今年は大雪だったせいか雪もまだ沢山残っている。山国の春は遅く、花は一斉に咲く。山桜、コブシ、レンギョウ、雪柳…カラマツの新芽も美しい。
「白樺 青空 白い雲 コブシ咲くあの丘 北国の春」の作詞者いではくは、同郷である。叔母の一人と同級生だ。あの歌は東北の春を歌ったとされるが、我が地元の人は「明神様のあのコブシを思い出して作ったものらしい」と、ありがちなモデル捜しをしたりしているから可笑しい。小学校近くの古い小さな神社のコブシの白い花は、春を告げるシンボルだった。
北国も山国も春の風景は同じであろう。日本の田舎の原風景がここにある。自然の中の生命の息吹を見て、あー今年も春が来た、あー今年も私は生きている、と感じながら、人は元気になるのだ。やっぱり春は良い。

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2014年4月28日

2014年4月21日

17  「旅」再び /書・山本萠

山本萠さんは、春と秋、年二回個展を開いている。時々、地方に呼ばれることもあり、私も旅行を兼ねて訪ねたこともあった。いつも雰囲気のある小さなギャラリーを会場にしているが、ここのところ国分寺のくるみギャラリーが多い。
今回の個展で再び「旅」の字に出会った。これは飛んでいる鳥のように見える。勿論、きちんと筆順で書いた字であり、やはり象形文字として漢字は面白い。
鳥になって自由に大空を飛べたら、と思うことは誰にでもあるに違いない。遥かなる旅への希求がそこにはあるのだろう。
萠さんは「旅行が好きなのに最近出かけていない」と話す。その思いが「旅」という字が最近の創作のモチーフの一つになっていることに繋がっているのかもしれないとも。
そうかもしれないが、萠さんは創作と思索を通して、内なる広い世界へ存分に旅をしているように私には見える。出かけなくとも、豊かで自由な旅をしているのだと思う。
個展の初日に来た方がこの書を気に入って、購入するかどうかを随分迷われたようだが、結局はこうやって私にご縁があった。待っていてくれたのだろう。
早速、玄関に掛けてみたが、出かける時に見るのに相応しい書だ。

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2014年4月13日

16 「トランクひとつ」への第一歩 / 遺言

今日も休めた。この間の休みと違い、よく晴れて春らしい気持ちの良い日曜日だ。マンションの中庭に咲いた白い花みずきの新緑が、春の日差しに映えてとてもきれいだ。
昨日の催しで人前で話すことがあり少し疲れていたので、誰とも話さなくて良い休みが出来てほっとする。本当に休みは大切だ。

さて、そろそろ、我が命題である「トランクひとつ」への整理に取りかからなければならない。
一ヶ月一アイテムぐらいのペースで行こうかと思う。
私に何かあった時、他人様は勿論のこと家族にも出来れば迷惑をかけたくないのは山々だが、それよりも大切なのは、最後まで自分らしく自分の思い通りに生きたいということである。その為には、常日頃から周りに自分の考えを伝えておくことが大切だ。書き残しておけば間違いないだろう。
私の場合、40才の時に吹き込んだテープと55才の時に書いた遺言書が手元にある。二つ共それぞれ、大切な人を見送った時に思うところがあり作った物だ。

その自由な生き方に憧れ、姉とも慕い、仕事仲間でもあった5才年上の女優の中島葵を見送ったのは私が40才の時だった。60年代、70年代という時代の空気が後押ししたこともあり、彼女は実に奔放に短い人生を駆け抜けた。彼女はひたすら自分を求め、それは病を得てからも変わらず、最後まで自分らしく生きた人であった。再発した癌で余命いくばくも無くなった時から一切の延命治療はせず、長野の山の麓の病院で旅立った。治療法に今ほど選択肢が無かった20年以上前にそれが出来たのも、彼女の生き方が周りに伝わっていたことと、パートナーである演出家のAの強い意志と実行力とが病院と担当医を動かし、自由にさせてもらえたのだった。
彼女の死をきっかけに、人生の最後をどう過ごしどう送ってもらいたいかを言葉で残しておきたいと思い、自分の考えをテープに吹き込んでみた。以後、誕生日頃に年に一回、確認の為に聞き直していたが一度も考えは変わらず、いつの頃からか確認はもう良いだろうと思いそのままになっている。考えは変わらないと思うがこの機会に一度聞き直し、加えることがあれば付け足して、カセットテープからCDに移してから残そうと思う。
そして次に遺言書だ。今私が運営に関わっている「伝統芸術振興会」の前会長で創設者の南部峯希を見送った時に、身をもって知らされたのは遺言書の大切だった。
��0才まで病気一つしたことが無かった南部だったので、癌の手術を控えて冗談のように書いた遺言書だったが、後に役立ち、残された財産が会の運営にも活かされているのだから、会に関わる人間にとっては身につまされる話である。南部には子供がおらず、親ももういないので遺言書が無ければ、財産は国庫没収の憂き目をみるところだった。そんなことになっていたのならば、南部本人が何よりも無念に思ったに違いない。
彼女と違い私には家族が多く、相続人の範囲内に何人か居るので、国庫没収の憂き目は見ないだろうが、家族に煩わしさを残さない為にも書いておくのに越したことは無いだろう。家族が揉めたり、没収されて残念がる程の財産が無いので、それが残念ではあるが…

最悪お金を残せなくても、後始末代くらいは出るようにと保険にも入っているが、これも今回整理しようと思う。必要最低限の物で良いだろう。
保険会社にもらった証書入れのファイルに適当なのがあったので、そこにそれぞれ整理をした保険証書、遺言書、変事の際のテープ(CD)、連絡名簿、それらをまとめて一つにして入れよう。それをトランクへ入れたら、このことから解き放たれて自由になろう。考えが変わらなければ、このことに関してもう悩むことは無いのだ。

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2014年4月7日

2014年3月31日

14 休む!

右膝が痛く、原因は色々考えられるが、つまるところ過労である。
気になる事は多いが、昨日は思い切り休んだ。先月大風邪をひいて2日休んで以来の休みだ。具合が悪くならないと休めないとは情けない。今年に入って休みらしい休みはまだ無かった。
昨日は雨が降っていて、咲き始めた桜の花には可哀そうだったが、何もせず静かに休むにはぴったりの休日だった。

つらつらと考えるに、この数年は「休む!休まなければ!」と言い続けたような気がする。忙しがるのはその「忙」の字ごとく心を亡くすこと。自分をコントロール出来ないことでもあり、恥ずかしい限りだ。舞台製作という、曜日に無関係な仕事に携わっていると、ついついメリハリが無く時が過ぎる。そうこうする内に一ヶ月はあっという間に過ぎ、一年も矢のごとくである。
そもそも読書や映画や舞台が好きで、その延長上でこの仕事に就いたというのに、本をゆっくり読む時間も無く、映画、演劇も付き合いで観るばかりで、それこそ本末転倒である。かつてのように、我を忘れるほどの本や映画に出会い、没頭する時間が欲しい。そういう時間を作らないでうかうかしていると、人生の最終章もあっという間に終わってしまうだろう。
ガンジーは、週に一日、誰とも話さない日を作ったそうだ。確かに、静寂と孤独は、安息と豊かさをもたらす。たまには、ひとり静かにもの想う時間を作り、自分を見失わないようにしたいものだと思う。
明日から学校も会社も新年度。この機会に休みのある生活を始めよう。エイプリルフールにだけはならないようにしなければ…






2014年3月24日

13 ○

△に近い○。とにかく休まないとダメだ。






2014年3月17日

12 読書会 / れれれの会

今二つの読書会に参加している。二つとも発起人でもある。
昨日は今年4年目に入った「れれれの会」があった。この会は、明治大学の名物先生で逸話には事欠かなかった津田洋行先生の退職を期に、かつての教え子達が集まって始めたものだ。すっかり様変わりをしてしまったが、懐かしい母校に月一回集まってはワイワイとやっている。
参加者が順番に発表をするゼミ形式をとっているので、発表者は結構真剣だ。皆、現役の時より熱心だったりするので可笑しいくらいだ。よくある話だが、大人になってからの方が学ぶ喜びを実感するようである。何の利害も無い学生時代の仲間ともあり、忌憚のない意見を出し合えるのも嬉しい場だ。
れれれの会とは一見ふざけた名前のようだが、意味はあるのだ。かつて明大で出会った縁を再び生かして、人生を生き直すという思いを込めて、rebirth、refresh、rejoin、restart、return 等、さらにはreport、research など勉強に関係する言葉の接頭辞のreをくっつけてrerereとし、さらにそれをひらがなに変換したという訳で、手が込んでいるのだ。真面目な津田先生も「歌うようなリズムがあって、戯れているようで、深遠だ」と気に入って下さり、名前から連想される赤塚不二夫の「天才バカボン」の「レレレのおじさん」へも思い巡らし、レレレという言葉に仏教的な意味があることまで調べ上げて下さった。近代文学の専門家の先生がである!
奇しくも先生が住まわれている青梅には赤塚不二夫記念館があり、後日、案内までして下さった。参加者の一人によると「レレレのおじさん」には悲しい過去があるということで、ふざけているようでなかなか深いのである。






2014年3月9日

11 子どものための日本文化教室

昨日は「子どものための日本文化教室」第9期の修了式が無事に終り、安堵している。この教室は私の最も大切にしている仕事の一つでもあり、私自身学ぶことも多い。
主催である伝統芸術振興会の専門が能楽ということもあり、能楽を中心として、茶道、三味線長唄、文様等の日本文化の一流の講師を招いて少人数制で行っている、かなり贅沢な教室だ。事業としては効率が悪いが、しっかりと丁寧に伝えるということでは少人数制をとるしかないのだ。人数が少ないので色々な意味で密度が濃く、あらゆる感覚の成長期にある子どもたちの変化が細やかに分かり、本当に貴重な一時を一緒に過ごさせてもらっているのだなあという感慨も深い。子どもたちの一年の成長ぶりには目を見張るものがあり、子どもから教えられることも多い。

国際化が進む中、また7年後の東京オリンピック開催を見越して、英語教育の強化が叫ばれているが、手段としての英語を身につけるばかりではなく、その伝える中身が大事ではないだろうか。自国の文化を知り、広く他国の人々に伝えていくことが重要だ。
日本には豊かな四季が育んだ素晴らしい文化があり、季節の移ろいを楽しむ日本人の感性がつくりあげた日本人らしいふるまいがある。3年前の東日本大震災では、被災者の秩序立った言動が世界の人々を驚かせた。そうした静けさをたたえた佇まいは、我が国固有の文化が基にあるからに違いない。

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2014年3月3日

10 月島を去る

今日はマンションの引き渡しをし、いよいよ月島を離れることになった。
事務所として7年通い3年住んで、都合10年の月島との付き合いだった。今日は郵便物や忘れ物の最後の確認の為にマンションに行ったのだが、広々としたエントランス、吹き抜けのロビー、ホテルのようなフロント、月島の町が高層化を始めた頃に建った高級マンションは、管理の良さもあって、10年経ったとは思えないほど新しくきれいだ。でも、私には似合わない。いずれにしてもこの3年が限度だっただろう。
10年前までは月島には一度も行ったことが無かったが、住んでみるとなかなか面白いところがある街だった。銀座から歩いてゆける距離にあって、2本の地下鉄で都内のどこにでもすぐに行けるのに、東京にあるけどどこか地方という感じもあった。以前は、地下鉄の出口を出ると目の前には古い長屋が並び、鉢植えが所狭しと並ぶ細い路地を通り抜けるとマンションに突き当たった。長屋の隙間から高層マンションが見える不思議な光景。路地に椅子を出して通りを眺めている老人。ゆうゆうと歩く野良猫も多かった。
月島は空襲を逃れたということで戦前の建物が残っているので、懐かしい趣がある。だが、明治に埋め立てられ造られた土地ともあり、同じく下町といっても、江戸情緒の深川や浅草とは趣を異にする。どこか近代的なモダンな面影が残っていたりするのだ。もんじゃストリートと称する何ともチープな名称の商店街の、新しい看板の上の方を見るとかつての商店の意匠をこらした看板が見える。結構バラエティに富んでいておしゃれで、文化度の高さを感じる。いわゆる「町の書店」や古書店も多かったが、この頃は大分少なくなった。
今やもんじゃ焼を食べる為に訪れる観光客の数は大変な数だが、そういった豊かさとは別の「豊かさ」があった時代もあったのだろう。月島にゆかりのある文化人も魅力的だ。吉本隆明、大岡昇平、石川淳、島崎藤村、小津安二郎、等々。四方田犬彦は『月島物語』で素晴らしい文学論、都市論を展開している。長屋がごっそり撤去されたのを見て彼が驚愕したその空き地に建ったマンションこそ我がマンションであった。縁があって住むことになったが、選択の余地があるのだったら、自分から進んでそこに住むことは無かったであろう。長屋の路地を歩きながら、こちらこそ私が住みたい所であるなあと思っていたものである。今はその長屋も撤去され、更に高いマンションが建設中だ。路地に居た猫たちは何処に行ったのだろう。

とは言え、高層マンションならではの楽しみもあった。天気の良い日は、光る運河と海の向うに房総半島が望め、風の向きによっては潮の匂いがし、山国出身の私にとって海の近くで暮すことは新鮮な体験だった。
また、雨の日には隅田川に架かる橋や人影が墨で描いたようにけぶって見え、浮世絵にある橋の図のようだった。高層マンション群が歌川国芳の描いた高い櫓のように見える。
夏の東京湾花火はとても良く見えた。レインボーブリッジ、湾岸の高層ビルの向うに上がる花火はまさに都会的な風景だ。スカイツリー、東京タワーも近く、永代橋、勝鬨橋のライトアップと相まって、美しい都会の夜景は堪能した。
もう良いだろう。これからはまた、地べたに近い暮しをしたいと思う。

月島






2014年2月23日

9 〇

ただ今引越し中。自宅も事務所も月島から千駄ヶ谷へ。

2014年2月16日

8 〇

20年ぶりに大風邪をひいた。
先週の大雪の日に寒い駅構内で立ちつくしたまま、催しの中止の連絡を参加者と関係者にしていて、身体の芯から冷えてしまったのがいけなかったようだ。
いつものようにプロポリスを舐めミネストローネスープを飲んでみたが、遅かりし、二日間寝込むはめになってしまった。一日は祝日なので助かったが、風邪でこんなに休んだのは本当に久しぶりだった。
でも、今日はまあまあ元気。







2014年2月9日

7 〇

今週も忙しかった。
トドメは昨日2月8日の出来事だ。45年ぶりという東京の大雪で、催しを中止せざるを得ず、精神的に疲れが極まった。
でも、まずは元気。





2014年2月2日

6 父の七回忌 / 親を亡くすということ

先日、父の七回忌の法事があり帰省した。この時期の長野はとても寒い。父の亡くなった6年前の冬も殊の外寒く、雪も多かった。父の亡くなる前日からしんしんと雪は降り続き、まるでこの世の汚れを雪ぎつくして旅立とうとしているかのように、世界を真っ白に覆って行った。一回忌も雪、三回忌も雪だった。
だが、この七回忌の日は晴れ渡り、青く深く冴え冴えとした冬の空がどこまでも続いていた。施主である弟は「きっと成仏したに違いない」というような意味のことを挨拶で述べた。そうかもしれないとも思うが、父はとっくに成仏しているとも思う。好きなように生きた人である。この世に未練は無く、持ち前の好奇心で新しい世界を楽しんでいるに違いない。

父は、満州、シベリア生活を体験。戦後の復興期を生き、父の世代の多くの人がそうであったように、それなりに苦労のあった人生だったと思う。しかし、生涯現役で通し、家族にも人にも頼りにされ、病気を得てからも長患いせずに、自宅で家族に見守られて静かに旅立った父の晩年は幸福だったと思う。
主治医とも相談し最後は自宅でとターミナルケアの道を選んだのだが、長年住み慣れた家は本人が一番安心できるところであり、誰かが必ず見守り父を片時も一人にすることが無く過ごした濃密な時間だった。幼い時のように、添い寝もした。

親を亡くすとはどういうことなのかと考え、友人達と話し合ったこともある。
「親との別れは過去を失うことだ。親だけが知っている『私誕生の安堵・喜び・成長の軌跡』などなど、持っていってしまうのだ。」というある友人の言葉に心から共感した。
自分の記憶には無い、幼い日の無垢な喜び。それを語れるのは親だけなのだと。

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2014年1月26日

5 向田邦子式「〇」

このブログが「健在確認」(生存確認とはまだ言わない)の側面を持つ以上、一週間に一度の更新が基本だと暗黙の了解になっており、一部の友人には公言している。自分でも、そのくらいは出来るだろうと高を括っていた。
ところが、私は相も変わらず多忙を極め今年も正月明けから一日も休み無く、昼夜と予定が埋まっていて帰宅後はバッタンキューの生活が続いている。そんな風なので、一週間に一度の更新も結構大変なのが分かってきた。

「一日一句」を目指してほぼ毎日、溜まっても二三日に一度の更新をして10年もブログを続けている友人がいる。こうやって自分もブログを始めてみると、それがいかに大変なことなのかがよく分かる。畏敬の念を抱くばかりである。
その友人も大病を得て手術をした後は更新も遅れがちになり、心配することも多かった。調子の悪い人に様子を聞くのは気が引ける。周りの友人にとって彼女のブログは彼女の様子を伝えてくれる指標となっていた。そういう意味でのブログの効用を教えてくれたのは彼女である。
彼女のように俳句という簡素にして本質を伝える方法を持たない私は、書けない時は、向田邦子式「〇」に頼るしか無い。疎開に行く寂しがり屋の妹に、〇だけを書いたハガキを父が渡したエピソードは前にも書いた。

時間が無い時はそれでいこう。
今日も元気だ。







2014年1月19日

4 トランクひとつを携えて

「トランク一つ」という言葉も、「シンプルな生活」「気ままな生活」の象徴としてよく使われる比喩だ。
トランク一つで暮したい、と長い間思ってきた。家というものを持ちたいとは一度も考えたことが無い。若い頃から何故か「放浪」「デラシネ」の思いに囚われている。種田山頭火などの漂泊の人にひどく惹かれる。
ここいらで本気で「トランク一つ」を目指してみようと思う。
今や「断捨離」ブームでもあり、インターネットなどを見ても私のようにトランク一つの生活に憧れている人が結構多いようである。専門のスレッドが立っていたのには驚いた。読んだ印象としては皆とても明るい。
私のように人生の最終章に足を踏み入れ、終い仕度の意味合いでモノを整理しようというのでは無く、まだ若く現役中にモノを無くそうというのだから凄い。その身軽さと自由への希求が清々しく気持ち良い。
ところで、トランクひとつの達人で絵になる人といえば、それは「寅さん」だろう。定職につかない風来坊の寅さんは、とても尊敬出来る人とも思えないが国民的人気を誇った。観客の心の根底に自由への憧れが潜んでいるということも人気を支えた要因の一つであったに違いない。
それにしても、いくらなんでもあのトランクでは間に合わない。それにあくまでも「一つ」とは「少ない」のメタファーであって、最終的にはトランク二つくらいに出来たら御の字だろうと思っている。二つだったら旅にも持って行ける範囲だ。でも、まずは一つに何がどのくらい入るかやってみよう。
何かを本気で始める為には、具体的な物を用意し環境を整えるのが有効だという。
まずは102Lの大きめのトランクを購入してみた。色は朱色で柿色にも見えるし、曙色にも見える。暖かみがあって、人生の黄昏時に旅立ちをするにはピッタリの色だ。
さて、何からここに入れようか。

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2014年1月13日

3 「旅」/書・山本萠

タイトルバックの書は、昨年のさんの個展で求めた物だ。最初は絵に見えたこの書の前で釘付けになった。寒風に土埃が舞う荒野を旅芸人、あるいはジプシーが歩いて行く。落款は太陽に見えなくもない。映画「風の丘を越えて」「旅芸人の記録」のシーンにあったような光景が浮かんで何とも言えない感動に打たれた。
一見アブストラクトな絵のように見える「旅」の字だが、きっちり筆順で書いたと聞き、改めて象形文字としての漢字の成り立ちに思いが至り、感慨深く思った。
ご縁があった作品が他にも何点か私の手元にあるが、時々それを年賀状やこういった物に使わせて頂いている。萠さんはいつも使用を快諾して下さるが、作品を写真に撮ったりプリントしたりすると別の物になってしまうので、大変失礼で申し訳ないと思っている。だが、私がつたない言葉を何万語も連ねても伝えきれないものを、萠さんの一枚の書を通して伝えたいと思うことがあるのだ。
この書に殊更に感動を受けた一人にダンサーの青年がいたそうである。さもありなんと思う。身体表現をする人にとっては、きっと感じるものがあったことだろう。しかし、お金も無い若いアーチストに作品を求める余裕は無く、しばらく書の前に佇んで立ち去り難くいていたそうだ。もしかしたら、この作品は私以上に彼に相応しかったかもしれないが、生きる支えに心に灯すものの一つとして、私にとっても必要な一枚なのである。
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2014年1月5日

2 The Last Ship / Sting

ブログ表題「ラストシップ」は、大好きなミュージシャンの一人であるスティングの新しいアルバムにあやかった。
スティングはほぼ同い年。国は違っても同じ時代の風を受けて歩んできた共感がある。ビートルズで音楽に興味を持ったところなど、まさに同世代ならではだ。日本公演の際は何度か足を運んでいる。
10年ぶりの新しいアルバムが“The Last Ship”と聞いて、その暗示的なタイトルに同世代的な感慨で、いよいよスティングも人生の最後の航海について考えているのだなと勝手に想像していたのだが、内容は違っていた。今秋ブロードウェイで公開されるミュージカルの為に書き下ろした物であった。自分の故郷の造船業の衰退を描いた、叙事詩とも思える、キリスト教的父と子の物語である。寓話的、夢の物語でもある。
いかにもミュージカルらしい楽曲もあり、楽しい中にも物悲しいサウンドはスティングならではだ。少し地味だが出来は良いし、スティングらしいアルバムだと思うが、発売後の評判は賛否両論とのことだ。“The  Soul  Cages”の時もそうだったが、支持者が少ないアルバムほど、一方で熱狂的な理解者はいるものだ。“The  Soul  Cages”のテーマは「死者の魂をなぐさめて、前に進んで行く」というものであった。父を亡くした後、どうしようもない空虚感に苛まれていた私は、父親が他界した後、やはり、曲を書きたいという気持ちが枯渇した、というスティングの言葉に強く共感したものだった。父への挽歌として作られた“The  Soul  Cages”は、私にとっても魂を揺さぶられる作品であった。これらの作品に心動かされなかった人も、時が過ぎ経験を積んだ後に再び聴いてみるとその良さが判るに違いないと思う。人生と向き合うスティングの中心的テーマは、いつも「自己発見」だから。
The Last Ship”に話を戻すが、ジャケット写真のスティングの渋いこと、かっこいいこと!! 幾つになってもシャイで、知的で繊細、しかも精悍だ。ギターも上手く、男性ファンが多いのもうなずける。
音楽には無関係だが、ディスクのイラストも良い。丸いディスクを地球に見立てて、青い海をグルッと一回りする赤い船。シンプルなアブストラクトな絵でイメージが広がる。
幾つになってもかっこいいスティングではあるが、我がブリティッシュロックの他の旗手たちも実に素敵に齢を重ねている。エリッククラプトン、ロバートプランツ、ジミーペイジ、etc. ミックジャガーなんて何?!まだやんちゃなクソガキだ。文字通り、転がる石に苔むさないということか。
毎年のように行っていたNYも久しく行っていないが、“The Last Ship”の公開予定の今秋には、しばらくぶりに訪れてみたい。  

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