今年最後の日にやっと休みになった。昼間にさっと掃除を済ませたので、今年を振り返ってみようと思う。忙しさに追われたまま年末になだれ込んでしまったので、一度整理してみて明日からの新年をすっきりとスタートさせたい。
私にとっての重大出来事を順位を付けずに時系列的にピックアップしてみようと思う。果たして十大ニュースになり得るかどうか。
今年という年がどういう年だったのか、これはあくまでも自分の為の整理。長くなると思うので、読んで頂くのは忍びない。私の生存確認の為に運悪くこのページを開いてしまった心優しい方、斜めに読み飛ばして下さい。
1、 転居
自宅、事務所共に引越しをする。私が所属する伝統芸術振興会の前会長で8年前に亡くなった南部峯希の遺品の片付けもすることがやっと出来た。南部には身寄りが無く、68代目にして長きに渡った家系を閉じることになったのだが、あだやおろそかに処分出来る物ばかりでは無かったので、かなり難儀した。モノを捨てない南部だったので、あの世から私を叱っているだろうなあと思いながら、バッサリとやるしか無かった。これが結構ストレスとなって、それが滓のようにまだ少し心に溜まっている。これは時間が解決してくれるだろうが、こういったこともあったので、自分は片付けに他人の手を煩わせたくないという思いは更に強まったのである。
いずれにしても、この二つの転居によって、より「トランクひとつ」の道に近づいたのだ。その後の歩みは止まっているが、新年には再開したい。
2、 膝痛
引越しの片付けが落ち着いた頃に、突然膝痛が起きた。かつて無い痛みだ。加齢現象ということでよく目にし耳にする膝痛だが、私の場合、体重増加も起因している。
多忙による運動不足、睡眠不足で新陳代謝が落ちているので、この1、2年でかつて無いほど体重が増えた。膝痛の為に歩かなかったので、更に増えた。そしてまた膝に負担が…と、悪循環である。
日本文化の教室の時には正座がつきものなので、冷や汗ものだった。酷い時はさすがに勘弁してもらったが、子ども達にきちんとするように注意しながら、情けないことであった。
もっと情けないのは、痛みが酷くて耐えている時に「どうせ酔っ払って転んだんでしょう?」と決めつけられたことである。私の日常がどんなものなのか、私がどう思われているか、これで明白だ。
大分良くなってきたので、少しずつ歩く時間を多くしようと思っている。
3、 甥の結婚
以前にも書いたが、今風では無くて、却ってとても良い結婚式だった。喜ばしいニュースの一つだった。
4、 母を特養に入れる
親を家で看られないのは辛いことだが、状況によっては家で看るのはもっと辛い。私から見て、母の状態は決して家で看られないとは思えないが、私が出来る訳でも無く、無責任なことは言えない。
昨年あたりから、老健に三ヶ月入院~自宅~老健~自宅と二回程繰り返したが、そろそろどこか特養にという話も出ていたところだった。特養は探してもなかなか見つからないものらしく、個室にも入れたし、費用は年金で賄え、外出も面会も自由、という条件が揃った所に母が入れたのは、むしろラッキーだと思わなければいけないようだ。足がまだ動く内に母の大好きな温泉に連れて行こうと妹たちと話している。妹二人がすぐに行ける所に、母の入った特養があるのはこれも幸いだった。
5、 大津健二さん逝去
大津さんは、学生時代に日生劇場でアルバイトしていた時の上役だった人だが、齢も近く感覚も合うせいか、私達アルバイト生とも仲良くしてくれて、飲みに行ったり旅行したりした仲である。学生時代の4年間、日生劇場のアルバイトを続けた吉田君は殊に、大津さんを兄のように慕い、悪友のようにもふざけたりして仲良く何十年も過ごしたので、大津さんの死に接した彼の気落ちぶりは見ていて辛いものがあった。お父様は、あの有名な「花のまわりで」の作曲者の大津三郎で弟さんも音楽家の、いわば音楽一家で育ちながら、大津さんはかつては日大全共闘の闘士であったが、その徹底したフェミニストぶりには、やはり育ちの良さを感じた。江戸っ子なので優しさを隠しがちだったが、実は気遣いの人で、私の制作する舞台を観に来てくれた時も、いつも心温かい感想を言ってくれた。大津さん、色々とありがとう。感謝しています。
大津さんは、学生時代に日生劇場でアルバイトしていた時の上役だった人だが、齢も近く感覚も合うせいか、私達アルバイト生とも仲良くしてくれて、飲みに行ったり旅行したりした仲である。学生時代の4年間、日生劇場のアルバイトを続けた吉田君は殊に、大津さんを兄のように慕い、悪友のようにもふざけたりして仲良く何十年も過ごしたので、大津さんの死に接した彼の気落ちぶりは見ていて辛いものがあった。お父様は、あの有名な「花のまわりで」の作曲者の大津三郎で弟さんも音楽家の、いわば音楽一家で育ちながら、大津さんはかつては日大全共闘の闘士であったが、その徹底したフェミニストぶりには、やはり育ちの良さを感じた。江戸っ子なので優しさを隠しがちだったが、実は気遣いの人で、私の制作する舞台を観に来てくれた時も、いつも心温かい感想を言ってくれた。大津さん、色々とありがとう。感謝しています。
6、ニューヨーク旅行
十何年ぶりのNYだった。久しぶりのNYはとても清潔で安全になっていた。かつてはなるべく乗らないようにしていた地下鉄も明るくなって、一般の乗客の他に観光客も沢山乗っていた。何よりも、車両に落書きが一切無くピカピカしている。街を歩くのも以前は緊張感があったが、何となくのんびりしている感じもあり、夜っぴて街に鳴り響いていたサイレンの音も以前より少なく、拍子抜けするくらいだった。とは言え、油断が出来ないのがNYではあるが、絶対行くなと言われていた通りが安全になった分、危険な所はより危なくなったようだ。行き場の無くなったものは一定の所に押し込められてしまったのであろう。
今まで何度NYへ行っても、行かなかった場所もある。人が知らない所に妙に詳しいくせに有名な観光場所には行ったことが無かったりしていた。今回は姪と一緒ということもあり、今まで登ったことが無かったエンパイアステートビルにも登った。他にも観光ルート的に街を回ったが、それはそれで面白かった。アメリカは外国に出かけて行って戦争をして街を壊すが、自国では戦争をしないので、古い建物が残っている。それもどうかと思うことだが…
古い物と最新式の物が共存している大都会はとても魅力的だ。街歩きをしているだけで面白いのはこういったことと、様々な人種が行き来しているのを見られるからだろう。
古い物と最新式の物が共存している大都会はとても魅力的だ。街歩きをしているだけで面白いのはこういったことと、様々な人種が行き来しているのを見られるからだろう。
NY生活がもう25年になる友人、アーティストの高木真弓さんの仕事ぶりや生活ぶりに接することが出来たのも嬉しいことだった。NYでアーチストとして生きていくのがどのくらい大変かは想像に難くない。アートの最先端の街で活動するのは素晴らしいことだと思うし、これからも良い作品を作り続けて欲しいものだ。
さて、今回の一大目的であるミュージカル「ザ・ラストシップ」だが、とても楽しめた。華やかさは無いので、ブロードウェイ観光ミュージカルが好きな人にとっては物足りないかもしれないが、骨太の男っぽい舞台でコーラスも良く、見ごたえがあった。客席は初日らしく舞台関係者やマスコミ関係者らしき人も多く賑やかで、受けも良かったので、一体感があって満足した時間が過ごせた。翌朝、早速ニューヨークタイムズを買って劇評を捜すがどこにも見当たらない。隅から隅まで見たが別のページにも掲載されていない。その後の評判はどうなのだろう。自分が楽しめたからどうでも良いのだけれど。
7、 二人の師の死
朝倉摂先生が3月17日に逝去された。私は美術が専門では無いので師と呼ぶ方としては筋が違うが、実際、朝倉先生とお呼びしていたし、私を立動舎に誘って下さり、より専門的に舞台に関わるきっかけを作って下さった方なので、まさに師なのである。実際に仕事をご一緒したのはほんの数年だったが、また改めて仕事をしたいと思い続け、時折どこかの劇場でばったりお会いしてはご挨拶をしていたが、結局は実現しなかったのが残念だ。
11月7日にはお茶の先生である桜井宗梅先生が亡くなられた。宗梅先生は近代茶道数寄者の高橋箒庵師のお嬢さんなので、幼少の頃から海外からのVIPのご接待にも同席されたということで、チャップリンと一緒の写真を見せて頂いたこともあった。元々のお顔立ちもあるが、お歳を召されてからも華やかで美しく可愛らしい方であった。茶碗の中の世界に宇宙論を込められて稽古をつけて下さったのが忘れられない。私は事情があってしばらく稽古を休んでいたが、宗梅先生がお元気な内にまた稽古を再開したいと思っていた矢先だったので、本当に心残りである。
お二人の死に接して思うのは、いつか、いつか、と思っていたのでは駄目なのだということだ。せっかく素晴らしい方にご縁があったのに、そのご縁を生かし切れないのはあまりにももったいない。ましてや、私自身ももう先が長くないのだから。
8、 花房徹逝去
以前にも少し触れたが、まだまだ心の整理が出来ない。もう居ないのだという思いだけが日増しに強くなる。
来年2月11日に「花房徹を語る会」と称して、下北沢の劇場でお別れの会を開くのだが、彼に関して私は何が語れるのであろうか。
9、 又姪の誕生
計算して書き始めたのでは無いが、結局、十大ニュースになった。人の一年とは、まとめようとすると大体10項目ぐらいになるのだろうか。大したことが無い時でも、心に残る物が10個くらいに分けられるのだろうか。これは面白い発見だ。
こうやって振り返ってみると、今年も悲しい、辛い出来事があり、涙することも多かったが、最後に新しい生命の誕生のニュースがあり、気持ちが明るくなった。この赤ちゃんは今、周りの人に幸せを振りまいてくれているのだ。本当に嬉しい。