今関わっている二つの読書会のもう一つの会は「およすく会」と言う。田中順子先生を講師として「源氏物語」を原文で味わおうという会である。会の名称は、桐壷の巻の【きよらにおよすけたまへれば】から。古語では「おゆ(老ゆ)=成長する」と「源氏物語」から知り、歳を重ねることは成長することなのだと、原文の古語に事寄せて名付けた。
読書会は今年の春に13年目に入り、毎月第一水曜日、文京シビック内の講義室で、田中先生の解説本をテキストに2時間半みっちり読み込んでいる。現代語には失われてしまった日本語の深い味わい、美しさを求めて、細部にこだわり、ゆっくりじっくり第10巻「賢木」の卷まで読み進んで来た。通常の読書会に比べたら遅い歩みであるが、豊かで奥深い「源氏物語」の世界を読み飛ばしてはもったいないという気持ちでやって来たのだ。全54帖、まだまだ先は長いが、せめて15巻「蓬生」までは行きたいものだと思っている。
参加者達の事情から、読書会の開催が夜から昼に変更になって以来、現役の身では平日の昼間に仕事を抜け出すのは容易では無く、発起人でありながら欠席がちで気が引けていたが、「賢木」もいよいよ終わりというので、先日は時間を作って参加した。
読めば読むほど、紫式部は天才だと思う。あれだけの長編なので登場人物は多いが、一人として同じ人物造形が無くキャラクターが見事に描き分けられているし、読者を次から次へと引き込んでいく小説としての構成も素晴らしい。また、多くの国の言葉に翻訳されたこの物語は、民族、国家を超えて世界中に知られており、紫式部は世界の偉人の一人と認められている。
しかし、こんなに有名な小説であるにも拘らず、これほど誤解されている小説もないだろう。私自身もそうだったが、プレイボーイの女遍歴の話なんて嫌いだ、と思っている人は多いと思う。それは、現代作家の翻訳の影響に他ならない。まるで性愛小説のような現代語訳が多いが、それはまったく原作を理解していない証拠である。現代語訳を読んで、「源氏物語」をこの様なものであると誤解した読者は、よほどのきっかけが無いと再び「源氏物語」を読もうとしないのではないだろうか。「源氏物語」で描かれているのは「心」であって、性描写など無いのだ。現代語訳では決して伝わらない「源氏物語」の魅力は、原文を読むことで初めて分かるのである。
今でこそこんなことを言う私だが、原文を読むまでは、その深く限りなく豊かな世界を知らなかった。こういう読み方を教えて下さった田中順子先生には、心から感謝するばかりである。
「源氏物語」を知ると知らないとでは、人生そのものの味わいが違っていたであろう。