2014年6月21日

24 れれれの会 / 深沢七郎「楢山節考」

読書会「れれれの会」の今回のテーマは「楢山節考」で、発表者はKさんだった。Kさんはいつも素晴らしい発表をして、メンバーから「あまりすごい発表をすると後がやり難いから、ほどほどにしてね」と言われるような人だ。「連合赤軍事件を考える」の時は、彼女の仕事関係でもある映画からのアプローチで始め、参考文献35冊を読み、心理学的に密室状況下の問題まで言及した。幸田文「きもの」の時は、彼女の趣味でもあるアンティーク着物のコレクションを持参し、色彩、手触りを実際に確かめて、明治時代に生まれた主人公の着物へのこだわり、生き方を検証した。
ことほどさようにあまりのこだわり故に、発表の前日は徹夜をしてしまうとのことだった。そんなこともあり、真面目な津田先生まで「徹夜などして頑張らなくてもよし、適当にやって下さい」などと、普段の先生のボキャブラリーに無いことをおっしゃる。Kさん、今回は「二時間は寝ました!」と。しかし、やはり、レジュメは18枚!そして、素晴らしい発表で、発表後の討論も活発だった。
「楢山節考」は私も今まで何度か読んでいる。その度に新しい発見と感慨がある大変な名作だと思う。津田先生も近代文学短編小説の三大傑作の一つであるとおっしゃる。武田泰淳、伊藤整、正宗白鳥、等、作家達も絶賛している。
親を老人ホームに入れることなどを「現代の楢山節考」と例えられることが多いが、これは的外れな例えである。「高齢社会への警告」などという捉え方も見当違いだ。「楢山節考」で深沢七郎の描いている世界はもっと深い。歴史的にも民俗学的にも、現代の倫理観では捉え切れない死生観がそこにはあるように思える。私は「人は自ら死んではならない」と最近まで思ってきたが、人間だからこそ自らの死を選んでも良いのではないかとふと思うことがある。「楢山節考」のおりんが自ら進んでお山行きを願うのはそれとはまた違うが、社会のルールに従っているだけではない死生観がそこにはある。終章の、凄惨なはずのお山の風景が何故か美しく感じられるのは、雪の効果と共に聖俗を超えたおりんの澄みきった精神性がそこにあるからに違いない。
映画でも、木下恵介版、今村昌平版共に、ラストシーンは同じ解釈だったと思う。内容はまったく対照的な捉え方であったが。映画では他に、新藤兼人の「生きたい」の劇中劇としての吉田日出子の老婆が印象的だった。彼女の女優としてのキャラクターと相まって、イノセントで神々しい姿が忘れられない。
能「姨捨」はもっと聖俗を超えていて、老人遺棄の悲惨さはない。月の光の精のような透明度の高い老女が舞うことで、浄化された清らかな世界を見せてくれる。無常のこの世を脱し、解脱した者の神々しさがそこにはある。私の尊敬する近藤乾之助師の「姨捨」では客席ですすり泣きがおきた。捨てられた悲しみというような俗っぽい感情では無く、人の世の無残さ、聖俗超えた透明な哀しみ、その崇高性に対する感動の涙だったように思える。
自然死とはどのような状態までを言うのであろう。現代は医療も発達し、望まない延命もあり得る。「ぴんころ」が理想の最後とも言われている。私は望まないことはされたくないので、自分の希望を書き残したが、果たしてどうなるのか、その時にならないと分からない。

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