久しぶりに訪れた善光寺はやはり立派だった。山門も仁王門も堂々としている。
線香をあげ煙を身体に頂き、本堂に入る。すぐの所に、びんずる尊者が鎮座している。通称「おびんずる様」と言って、病人が自らの患部と同じところに触れ、尊者の神通力にあやかって治して頂くという信仰である。ここのところ右膝が不調な私は右膝をすりすり、せっかくだから(?)ほかの部分もなでなで。おびんずる様は何百万という善男善女に撫でられたのだろう。頭の天辺から足のつま先まで隈なくぴかぴかである。庶民信仰とはこういうものだろう。
善光寺参りの中で特筆すべきは「お戒壇巡り」である。これはさすがに昔の10才の私の記憶にもかすかに残っていた。御本尊様の下、一寸先も見えない暗闇の中を手探りで進む感覚はとても印象深い。お戒壇の中の暗闇は無差別平等の世界をあらわしているという。確かに暗闇の中では、日常の様々なとらわれの心を離れ、手探りで一心に出口に向かう。そこには手の感触といつか見えるはずの出口の光を求める心があるだけなのだ。それはどんな人間にとっても同じはずだ。
善光寺では、勿論、甥達夫婦の幸福も祈ったが、その結婚式も無事に終わった。
輝かし過ぎる新郎新婦のプロフィールの発表も無く、泣かせの演出も無く、やたらとおしゃれに凝り過ぎず、オーソドックスで笑いのある心温まるとても良い結婚式だった。衣装も最近は芸人みたいにピカピカなのが多い中で、地味目だが品があって二人とも背が高いので却って引き立っていた。泣き虫だった昔の甥を思い出してはよくからかっていたが、立派になったものである。
二人は青年海外協力隊で派遣されたモンゴルで知り合ったので、その共通の友人たちが受付を手伝ってくれ、民族衣装を身につけ受付周りもモンゴル色豊かに設えてくれていた。
モンゴルの音楽、馬頭琴とホーミーの演奏者も駆けつけてくれ、モンゴル色に彩りを添えてくれた。馬頭琴はとても縁起の良い楽器とも聞く。甥夫婦に幸あれと願いつつ、遥か草原の音に耳を傾けた。
