今回は何と私に発表の番が回ってきた。『虞美人草』は大変な長編で、漱石も自他ともに認める失敗作とあって、ずっと気が重かった。でも、とにかく読まなくてはならない。自分では選ばないだろう本を読むのもこういった読書会の妙味であるから、と諦めた。この一ヶ月は寸暇を惜しんで『虞美人草』に向き合ってきたが、その寸暇さえままならない忙しさで、図太い私もさすがに泣きたい気持ちだった。私の多忙を御存じの津田先生は気遣って下さり、「適当に」とかおっしゃるが、そんな言葉が実は先生のボキャブラリーには無く、適当になんてやれるはずがない。勿論、先生の為に発表する訳ではないが、ちゃんとやらないと、まじめにやってきている他の参加者にも申し訳ない。
でも、とうとうこの日はやって来てしまった。
結果は、一昨日の発表の一部をここに載せることで、報告としたい。
<テキスト>
『虞美人草』夏目漱石 岩波文庫 (1939・1・10初版)
<作品概要>
漱石が職業作家となって初めての作品
「朝日新聞」掲載(明治40年6月23日~10月29日)
題名の「虞美人草」はひなげしの別名
<文体、構成>
会話部分は落語調だったりして読み易いが、地の文は比喩が多く、美文調、擬古文でかなり読み難い。しかし、美文調に慣れてくると、日本語独特の心地よさを感じ、イメージとして映像が浮かんでくる。読んでいてイメージが立ち上るのは優れた小説であると言えるのではないだろうか。
また、五感に訴える表現が豊かである。色、匂い、音…が鮮やかに浮かび上がる。(モチーフとしての、金時計、紫色、ガーネット、着物の色柄、ヘリオトロープ、琴の音、虞美人草…等々)
登場人物が多彩でキャラクターが描き分けられていて、プロットも豊かで盛り上げる仕掛けが随所にあり、読んでいて楽しめる。
会話調で始まり、次の章では趣を変えて美文調で格調高く語る、という繰り返しかと見せて、後半は畳み込むように芝居がかったように展開する鮮やかな手法。かの大文豪に失礼だが、流石にうまいと思わせるところがある。
全体として群像劇としてもとれるし、読みようで主役が変わる多様な構成である。
<映像化>
これまでに3度映画化され、4度テレビドラマ化されている。
それ以外にも、1981年に向田邦子脚本、松田優作主演(甲野役)(藤尾役は桃井かおり)の作品が制作される予定だったが、向田邦子が飛行機事故で急逝したため、実現には至らなかった。演出の久世光彦によると、向田は亡くなった時に岩波文庫の『虞美人草』を携えていたはずだと言う。『虞美人草』は向田がやりたがった作品で、帰国したら直ちにこの作品の打合せをすることになっていたのだそうだ。そういう意味では『虞美人草』は向田邦子の最後の未完の作品とも言える。この作品のドラマ化の為に向田邦子と会ったのがきっかけとなり、松田優作がその後、森田芳光監督『それから』に出演し、俳優としてそれ以前にはなかった新しい松田優作像を作ったのは記憶にも新しい。
このように、『虞美人草』の映像化は結構多い。映像化では圧倒的に『坊ちゃん』『こゝろ』が多いが、それに次ぐ回数である。作品としては上の扱いの『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『門』などの映像化より多いということは、多くの演出家や脚本家にとって『虞美人草』は魅力ある作品であるということである。それはこの作品のプロットの豊かさや登場人物が多彩であることが要因となっているのではないだろうか。映像化したそれぞれの作品の主役が違うのも面白い。視点を変えると主役が変わるのは登場人物が多彩でキャラクターが豊かに描き分けられているということではないだろうか。
<作品評価>
正宗白鳥の批判は有名だが、その評価自体は総じて「錦繍の文体で飾った大がかりな失敗作」(三好行雄)といった言葉に要約され、おおむね酷評だ。だが珍しいことにこの作品を、『「大人」になること―漱石の場合』という文の中で枚数を割いて評価しているのは内田樹である。
「宗近くんはいわば帝大卒の「坊ちゃん」である」として、宗近と坊ちゃんの二人の青年こそ、漱石が明治の青年に文学的虚構を通じて示そうとした理想の青年像に他ならない、と述べているのだ。内田は『虞美人草』を小野、甲野、宗近の3人の青年の成長物語としてとらえている。明治という時代は人も物も旧弊をばっさり切ってしまったので、青年たちにはロールモデルがいなかった。「先生」がいなかった。この作品に続いて、畢竟、先生の存在が重きを成す『三四郎』『こゝろ』を書かなければならなかったのだ、というのである。私はこの内田説に大変共感した。
<まとめ>
結果として、私はこの作品を面白く読んだ。発表担当という理由で全編をしっかりと読んだのは良かったと思う。
漱石生前中も死後も専門家の評価が悪い中で、この小説を大いに楽しんだのは一般読者(素人)だというが、さしずめ素人の私が楽しんだのは当然と言えば当然だ。
津田先生曰く、漱石の作品は大衆文学にして純文学、広く読まれる要因であるという。そういう意味で、大衆文学に飽き足らない人が、ストーリーの展開に大衆文学の面白さを含みながらも格調高く運ぶ漱石の世界を楽しむのは自明であろう。
職業作家として初めて書く『虞美人草』に漱石が沢山の工夫を凝らしたのは想像に難くない。
『虞美人草』は漱石の失敗作ではなく、野心作というべきではないだろうか。
今現在、朝日新聞に漱石の小説が復刻連載中であり、話題になっている。そして、来年2016年は漱石没後100年だというが、改めて漱石が注目される流れはあるようだ。
<参考文献>
『夏目漱石の全小説を読む』 國文学編集部 學燈社 2007・9・25
『漱石を読む』 柄谷行人、小森陽一、他 岩波書店 1994・7・15
『「おじさん」的思考』 内田樹 角川文庫 2011・7・25
『漱石を語る2』 小森陽一、石原千秋 翰林書房 1998・12.5
『漱石論 21世紀を生き抜くために』 小森陽一 岩波書店 2010・5・27
『再読 日本近代文学』 中村真一郎 集英社
『漱石と三人の読者』 石原千秋 講談社 2004・10・20
『触れもせで』 久世光彦 講談社 1992・9・28
他
以上のような発表だったが、慌ただしくやっていると、肝心なことを忘れるものだ。この作品に好意を寄せている作家にもう一人、村上春樹がいたのだ。
村上春樹は河合隼雄との対談の中で『虞美人草』とか『坑夫』が好きだと言っている。それを反映したのが『海辺のカフカ』だ。カフカ少年と大島さん(蜷川演出の舞台では、長谷川博己がやっていたっけ)が、『虞美人草』『坑夫』に関して、その魅力を話すシーンを入れているのだ。
皆がつまらない、失敗作だという物を結構楽しんだ私は何なのだと思うが、向田邦子、内田樹、村上春樹が認めているのだ。それで良いではないかと、自己満足している。
ところで、今回はさすがに半日だけ図書館に籠った。久しぶりの図書館。やっぱり図書館はいいなあ。もっともっと時間を作らなくっちゃ!