2015年12月27日

89 新宿PIT INN 50周年記念フェスティバル

忙中閑あり、この師走にジャズコンサートに行く。あのPIT INNが50周年だと言うので特別な感慨もあったのだ。
私たちの世代は紀伊國屋書店裏にあった時の店によく並んだものだった。今や日本ジャズ界の大御所達も当時はまだ若く、エネルギーをほとばしらせていて客席もけんか腰だったりして、PIT INNはその時代を大きく反映していた。多くの店が無くなった中で、よくぞここまで続けたものだと思う。
客席はさぞや団塊の世代が多いだろうと思ったら、若い人もそれなりに居る。司会の菊地成孔による客席アンケートの拍手の反応によると、50、60代が多く、パラパラの拍手ながら80才代以上の人も居る。いいなあ、80才以上になってもジャズコンサートの会場に足を運ぶなんて。10才以下と100才以上は居ないが、その他の世代は網羅していて、沖縄県以外の都道府県から集まって来ていることも判明。大ホールはほぼ満席で、ジャズファンだけあって客達は何となくあかぬけている。そんな大盛況の中、オジさん達が熱い!
渡辺貞夫、日野皓正、山下洋輔、坂田明、佐藤允彦、渋谷毅….超絶技巧で若者もぶっ飛ぶ音を出している。勿論、次世代も頑張ってはいるが、自由な音楽の象徴でもあるジャズを心から体現しているのは、このオジさん達だ。戦後復興期とジャズのプログレス期が一致していた時代を生きてきたからに違いないと思う。
長時間のコンサートにもかかわらず、飽きもせず大いに楽しめた。疲れるどころか飛び切りのエネルギーをもらってきたのだった。それがジャズという音楽の力だろう。明日からもうちょっと頑張れるかな…






2015年12月17日

88 「お召し列車」 燐光群公演

燐光群は好きな劇団の一つである。作・演出の坂手洋二には「天皇と接吻」という名作があり、天皇制問題は彼の重要なテーマでもあるので、その方面のストーリーと思いきや何とハンセン病がテーマであった。天皇を乗せるための特別列車である「お召し列車」の名称が、ハンセン病患者を国立療養所に集めるために運行した列車の隠語としても使われていたのだと言う。何という皮肉であろう。日本が戦争に向かう頃、ハンセン病患者への差別が強まり、その隔離のための「強制収容列車」が繁茂に運行されたのだそうだ。
日本におけるハンセン病への差別は根深い。治る病気、伝染しない病気と認識されてからも「らい予防法」はむしろ強化され、平成8年にやっと廃止された。坂手はその酷い差別の歴史を振り返り、過去を忘れてはいけない、見つめよと訴える。
最近、映画「あん」でもハンセン病問題が扱われた。こういった過酷な体験、差別を受けた方々も高齢になった。戦争体験者も高齢化している。まだ彼らが生きている内に、もっと生の声を伝えるべきであろう。日本が本格的な健忘症国家になってしまう前に。

それにしても、差別とは想像力の欠如に他ならない。
ジョンレノンは30年以上前に想像力の力を「イマジン」によって、訴えていた。感動と共に聞いたあの頃、21世紀には少しはこの歌の内容に近づいているだろうかと思ったものだが、世界はますます混迷の度合いを深めている。今や、第三次世界大戦が起こりかねないような状況だ。













2015年12月7日

87 ◯


寝込みもしないし具合は悪くないのだが、私には珍しく、風邪っぽい状態が続いていてスッキリしない。まあまあ元気ではある。

2015年11月27日

86 ◯



今日はこれから出雲に向かう。出雲大社神在月の祝祭である夜神楽の最終夜の特別祈祷に参加する為である。初めての体験で大変楽しみだ。

2015年11月17日

85 美しい老人 / ドナルド・キーン

旧知の演出家、芥正彦が特別講演をするというので、久しぶりに駒場東大に出かけた。私は駒場に20年程住んだので、よく東大構内を散歩したり購買に本を買いに行ったりしていた。さすがに日本の最高学府ともあり、専門書の品揃えも豊富だった。校庭は一通り歩くと30分はかかるくらい広大だ。本郷の三四郎池にちなんで駒場には一二郎池という池まである。
新しい建物もいくつか増え、以前の購買の建物は建て直されてピカピカだ。だが、中には近代建築そのものの古い建物も残されていて、ノスタルジックでなかなか良い雰囲気である。イチョウ並木も色づき始めている。もう少し経つとイチョウの葉が黄金に美しく散りしきることだろう。

さて、今回の講演は、三島由紀夫シンポジウムと銘打って、三島の生誕90年、没後45年の記念すべき年に三島文学を検証しようという訳である。芥は46年前、三島の自決の前年に東大全共闘の一人として三島と討論した。その映像が残っており、それを上映しつつ当時を振り返り、その後の日本の変遷を顧みたのである。シンポジウムの会場は、当時と同じ建物で三島と東大生が討論した講堂(900番教室)だ。この檀上に居たのだなあという感慨と共に、三島がもしこの現代に生きていたらと想像せずにはいられなかった。だが、あの自決が無かったとしても三島は長生きはしなかったであろう。三島は老醜を心から嫌悪していたという証言が、当日のパネリストの何人もから聞かされたのである。確かに三島の身体の鍛え方は尋常ではなかった。
今回のシンポジウムに出かけた理由の一つに、ドナルド・キーンの話が聞けるということも大いにあったのだが、お姿を拝見して本当に良かった。キーンさんは日本人以上に日本を愛し、日本に詳しい。日本文学の魅力を世界に伝えた人でもある。御年93才というのに、杖もつかず檀上に登るのに不自由はしない。とにかく驚かされたのはその美しさだ。何と言ったら良いのだろう、大変失礼だが、檀上のお姿を見て「何てきれいな、おジイちゃんだろう!」と思った。テレビや雑誌などの写真からは想像出来なかった。三島の嫌った老醜とは程遠いお姿だ。その美しさは内面からあふれ出たものに違いないだろうけれど、凛として透明感がある。
中村真一郎が美しく老いた女性を「威厳があって銀狐のよう」と称賛したが、それを思い出した。そんな風に年を取れる人はそうはいないであろう。










2015年11月10日

84 青い眼の光 / 夭逝の画家 島村洋二郎

どんなに印刷技術が発達しようとも、絵だけは実物と対峙しなければいけないと思う時がある。
それを衝撃と共に感じたのは、ゴッホの自画像と向き合った時だった。あの眼光に射すくめられて、しばらくは身動ぎも出来なかった。お前はそれで良いのかとその眼は問うていた。
島村洋二郎の自画像を初めて見た時も同じようなショックを受けた。洋二郎もゴッホと同じように貧しいままで37才の若さでこの世を去っている。やはりゴッホのように自画像も何枚も描いているが、中には凄まじい物もあり、それは最愛の妻が出奔した後に描かれた物で、その見開かれた眼に宿った狂気と慟哭と哀願には胸が締めつけられる。
その2年後くらい、死を目前にした頃に描かれたこの自画像の眼にも力強さはあるが、諦念と覚悟が感じられる。死を前に清浄な気持ちになれたのだとすれば少しは救われるような気もする。
洋二郎の驚くべきところは、これらの多くの絵をクレパスで描いたことである。貧しさから絵具を売り払い、クレパスで思いを塗りこめたのだ。とてもクレパス画とは思えない迫力だ。
優れた芸術作品がその作者の不幸から生み出されることはよくあることだが、そんな非凡な人生を送りたくもなく、送らないだろう我々凡人は作品を味わうしかない。それがどんなに苦悩の叫びや孤独の悲しみであっても、魂を揺さぶられる限りは。









2015年11月1日

83 職場のイヤシ部長

仕事が立て込んでくると猫の手も借りたいのはどこの職場でも同じだろう。私の職場では、猫の手ならぬ孫の手を借りてている。正確に言うならば又姪(孫のようなものだ)の親である姪の手を借りているのだが、生まれてまだ10カ月のゼロ歳児を伴っての出勤だ。この子が生後3ヶ月の頃から外出が出来るようになり、寝かせておけばいいからと週に1、2回程来てもらっているのだが、その内に寝ている時間も短くなり、今はもこもこと事務所を這い回っている。仕事場でもあるし、泣いて手に負えなくなったら帰すことにしているが、帰したのは1回だけという優秀さだ。
スタッフも「仕事に疲れたら、サツキちゃんを抱っこして癒されましょう!」と大らかに対応してくれて、早速ついたあだ名が「イヤシ部長」。テレビで木下ほうか演じる「イヤミ課長」がなかなかの人気キャラらしいが、こちらはゼロ歳児にしてあだ名がついた職場の人気者だ。女の子ながら男顔で行動もかなり激しくお転婆で、親が与えた赤ちゃんらしい女の子らしいおもちゃには目もくれず、事務所の文具や紙類がお気に入りでくしゃくしゃといじったり口に入れたりしていて、公演終了後の余ったチラシを彼女に与えているが、まき散らしてなかなか豪快に遊んでいる。まだオノマトペも獲得していないので、エイッでもなくヨイショッでもない、何とも表現し難い音声で掛け声らしきものもかけたりしている。デスクの下などの狭い所も好きで、いつのまにやら入り込んでいるが、事務所は自宅にはない面白い物がいっぱいあるワンダーランドのような所なのだろう。彼女にとっては毎日毎日が生まれて初めての体験ばかり。興味津々とばかりに学習している姿を見るのはとても新鮮だ。まさに赤ちゃんは学びの天才。私達も赤ちゃんだった時もあるのに、その学び方を忘れてしまって可能性や自由を閉じ込めていることを痛切に感じる。

そんなこんなでさして邪魔にもならず、今のところはイヤシ部長のたまの出勤は続いているが、歩き出したら手もかかるし危険が生じて注意も怠れないとなったら、来てもらうのは難しいかもしれない。こちらは託児所がある大会社とは違うのである。世の中には、イクメン、イクボス、イクカンなどの造語を通じて、子育てを推進し母親が働き易い環境を作る動きがあり、それはそれで良い事だと思うが、本来あたり前のことをキャッチコピーを作って推進しなければいけない社会自体が問題ではある。
だが、社会は変わりつつある。通勤途中のスーツ姿で赤ちゃんを抱っこしている若い父親を見かけることも多くなった。先日は電車の中で、抱っこした赤ちゃんのアーアーという喃語に、そうだね、そうだねと優しく答えている若いパパの様子がとてもほほえましかった。彼らが自然体であるのが大変好ましい。











2015年10月23日

82 子どものための日本文化教室

だいぶ秋めいて、過ごしやすくなった。今年はちゃんと秋があるだろうか。

明日は「子どものための日本文化教室」の茶道だ。会場は高田馬場にある茶道会館。都心とは思えない閑静な佇まいで、その場に居るだけでも身が清められるような思いがする。
環境は大切である。子どもはその場の空気を敏感に察知して神妙にしている。この場では騒いだりしてはいけないのだ、ということを感じて行動することはとても意義深い。


2015年10月13日

81 夏服は足りたか?

連休最後の日は私も休みがとれた。久しぶりの休みは勿論誰とも会わず、話さない。
例年9月には夏服の整理をして保管クリーニングに出すのに、それも遅れているので夏服の整理をした。ところで、昨年あんなにバサッと処分してしまった夏服は足りたか?
足りたどころか、一度も着なかった服がまだ結構あった。充分だったのである。正直に言うと買ってしまった物も何点かある。ガウチョパンツ2枚にチュニックシャツ3枚だ。このアイテムからバレバレだろうが、楽そうで体形が隠せるという理由でつい手がのびてしまった。だが、この5点よりも着なかった服の数の方が多いのだから、量的にはまったく問題が無かったのである。この新しい5点の代りに着なかった物から5点減らせば、全体量は増えない。夏は汗っぽいからとインナーは少し多めに取っておいたが、どうやらそれも不要のようだ。一シーズン試してみて、まだまだ減らせるという確信が持てたのだ。仕事の場にはそれなりの恰好が求められるので今は仕方がないが、現役を退いたらドッと洋服は減ることだろう。
さて、処分する服はどうするか。私とてまだまだ着れそうな服をゴミ箱行きにするのは忍びない。
都合の良いことに、私の住んでいる渋谷区には拠点回収というシステムがあって、再利用目的で洋服やバッグを回収する所があるのだ。その近所にはリサイクルショップがあって、それらを安く販売している。提供者にとってお金にはならないが、ただのゴミにしたくないという気持ちは少し慰められる。それにしても、処分する服を並べてみると同じような物ばかりで、がっかりだ。

私は洋服が大好きで沢山買っては飽きて、それを人にあげていた。主な犠牲者は妹たちだった。だが、人が不要になった物を喜んでもらうはずがないことに気が付いたのは、逆のことを人にされた時だった。上質な物、高かった物だからただ捨てられないのだろうが、いかに良い物か、私の方が似合うかを強調する相手を見て、わが身を振り返った。不思議なことにどんな人も同じように、くれようとしているその洋服の良さを強調する。だったら自分で着れば良いのにね。もったいなくて捨てられないだけなのに、決してへんな物を押し付けているんじゃないのだという言い訳を、無意識にでも伝えたいのだろう。私にも覚えがあるのでよく分かる。どうあれ、所詮、自分が着なくなった物なのだ。そんな訳で私は、ねだられた洋服以外は人にはあげないことにしたのだった。何十年も前に妹に譲ったコートを、姪が今風に可愛らしく着ていたのはとても嬉しかったけれど、そういうのは稀だろう。
大好きな洋服と辛い別れをしない為には、とにかく増やさないことだ。服を減らした分、一つ一つに愛情を注ぎ充分に着尽くせば、使い切ったという充足感も生まれるに違いない。






2015年10月3日

80 晴れ女に雨男

私は俗に言う「晴れ女」だ。今まで大事なイベント事で雨に困らされたことはあまり無い。何十年の中で思い出せる悪天候は、大雪2回に、台風1回くらいであろうか。雨で困ることは、まずは出かけて頂くのに足元が悪いこと、傘置き場の無い小劇場などで傘袋を渡す手間やお客様に煩わしい思いをさせることがある。殊に大変なのは野外の催しである。順延もまた後の事を考えると大変だが、中止になるのはお客様に気の毒で主催側の後処理も大変だ。急遽、屋内の代替会場に変更ということもあるが、準備もあるのでいつの段階で判断するかも難しい。そういう意味では、今まで悪天候に困らされなかった私はとてもラッキーだった。
その私に強敵が現れた。その方は観世流シテ方梅若玄祥師、人間国宝である先生に「敵」などと申し上げては失礼千万だが、先月お会いした際に「僕は雨男で、今年はもう3回薪能が中止になっているの。最後くらいは晴らせたいね。」と、仰天することをおっしゃる。2週間くらい前から天気予報に注目していたが、前後は晴れなのに、公演日は雨の予報。薪能に関しては全勝だった私もとうとう初黒星かと、もう泣きそうだ。
公演前日の仕込み日から雨が降り始め、会場のある土浦の城跡に私が到着した時にはかなり激しい降りだった。通常は前日の夕方には舞台の組み立てがおおよそは出来ているのだが、この日は土台の鉄骨が組まれているだけで、鉄骨に雨が激しく降り注ぐ光景は悲しすぎる。市の担当者たちと話し合い、明日は曇りで降水確率0パーセントという天気予報を信じ、野外で決行しようという結論を一旦は出して解散。翌朝8時に集まり、いよいよ決行という段階から猛スピードで準備が始まる。前日の仕込みが遅れていた分もあり、スタッフにはかなりの負担だ。それに100パーセント雨が降らないという確約は無い。曇りの空を見上げるばかりだ。そこへ朗報(?)。照明の斉藤さんは、台風もそれて行ってしまうほどの強力な「晴れ男」だそうで、晴れ女に晴れ男の二人が居れば、いかな強敵(玄祥先生、すみません)であろうと、大丈夫だろうということになった。それでも何度も空を見上げる。夕方近くなると青空ものぞき、いよいよ問題はなさそうだ。到着した玄祥先生も「今日は大丈夫そうだね」と笑顔。
篝火に火が入り、いよいよ公演が始まると舞台の上の中空に十三夜の美しい月。うっすらと雲がかかり薄月夜に秋の虫の声。こういうシチュエーションがまさに薪能の醍醐味なのだ。
能「田村」も後半にさしかかり、もう少しだ、良かった、良かったと胸をなでおろしていたところに、あろうことか、雨がパラパラ。空には月が出ているというのに! ザーッとくれば即刻中止だがここが判断の難しいところ。お客様も動かない。そうこうする内に雨は止んでくれたから無事に公演は終わったが、本当にやれやれである。玄祥先生も安堵の様子を見せながら「やっぱり僕らしいとこがちょっと出ちゃったね」と。
これだけの舞台を作る人たちとは思えないほど非科学的な笑い話だ。







2015年9月24日

79 〇


9月も後一週間で終わる。この一週間が正念場だ。地方公演が2本に講座が一本。こなすのが精いっぱいで、楽しむ余裕が無い。仕事だから仕方ないだろうと叱られそうだが、どんな苦しい仕事でもどこかにひそかな楽しみを見つける私にとっては、悲しいかな、今は失敗しないことだけを考えるしかないというようなテイタラクである。

2015年9月14日

78 〇


まずは、元気。元気だが余裕が無い。

2015年9月4日

77 ミネストローネで医者いらず 

疾風の8月が終わり、怒濤の9月が始まった。今月は公演3本、講座が4本と、これまた恐ろしいラインナップだ。
それにしても暑い暑い夏だった。このところ数日だけ秋めいて涼しかったが、また残暑が戻ってきた。寒い所の生まれのせいか暑さは元より苦手である。暑さと多忙で、よくぞ倒れなかったものだと思うが、若い頃と違ってもう無理もきかなくなってきているし、身体に対して少しは気をつけていることもあるから乗り切れたのだろうか。
身体の為といったら、まず食事だろう。ちょっと疲れてきたなと思った時や風邪っぽい時に、私が必ず作るのがミネストローネだ。風邪などすぐに吹っ飛んでしまう。沢山の旬の野菜から力をもらっているのだ。ミネストローネだから季節は問わずトマトはたっぷり入れる。「トマトが赤くなると医者が青くなる」とは、言い古された諺だが、私もおかげでまったくの医者いらず、薬いらずで20年以上は過ごしている。
それから、私にとってこのスープに欠かせないのはセロリだ。オリーブオイルで炒めた野菜をセロリの葉っぱの煮出し汁でグツグツと煮るのだが、経験上、滋養に関してはセロリの効き目は大きいような気がする。そして今年の夏は、友人Sが自宅の庭に作った畑で丹精込めて栽培したジャガイモが活躍した。何に対しても行動が慎重で丁寧なSらしく、きれいで出来の良いジャガイモが美味しかった。

ところで、つい何ヶ月か前の事だが、友人が勤める制作会社が作ったドキュメンタリーというので見たのだが、イタリアの小さな島の世界一長寿の家族の事が放送された。9人のきょうだいは皆90才以上でぴんぴん、長女はなんと100才を超えているのだが、そのファミリーが毎日食べているのが、採れたてのトマトと野菜がたっぷりのミネストローネだったのだ!イタリア人らしくスパゲッティをポキポキッと投げ入れていたっけ。まさに、ミネストローネが健康食、長寿食だというのが証明された訳だ。赤ワインを毎日1、2杯飲むっていうのも気に入った。






2015年8月26日

76 〇


二つの大きな催しを抱えて、8月は一年で一番忙しい月になってしまった。
先日「夏休み親と子の能楽教室」が終り、今度の日曜日30日は「第21回能楽座自主公演」が控えている。どちらも素晴らしい企画なのに、楽しむ余裕がない。いつか手を引く前に、じっくり味わいながら、楽しみながら、携わりたいものだと思っている。

2015年8月18日

75 又甥誕生

姪の子供は、女の子の場合は「又姪」、男の子の場合は「又甥」と呼ぶのだそうだ。
その又甥が先日産まれた。
産まれて4日目にしておメメはぱっちり、髪もフサフサ、うっすら笑っているみたいで、産まれたてとは思えない。昨年産まれた又姪もしっかりしていた。最近は、おサルみたいにくしゃくしゃの赤ちゃんをあまり見ない。
又姪の時もそうだったが、新しい命の誕生は周りの者に幸せを運んでくれる。幸せな気持ちになるから、ハッピーな現象も引き寄せられるのだろうか。赤ちゃんの誕生だけでも嬉しい出来事なのに、加えて幸福な出来事が連鎖するのはとても気分が良い。
私には、姪や甥が沢山いるので、これからが益々楽しみである。












2015年8月9日

74 チラシの山 / 仕事の山

私達の仕事には、チラシ、ポスターは付き物なので、仕事が立て込んでくると事務所はチラシが山積みになってしまう。いつも秋に行っていた公演が前倒しになったりして、この8月、9月は大変なことになってしまった。改めて数えたらチラシは7種類あった。
出来るスタッフがそれなりに居れば問題は無いのだが、近頃は舞台の裏方になろうなんていう若者はとんと少なくなってしまった。現場に行くと、音響も照明も同様で、トップの人間は嘆いている。
今時の若者は、給料が保障されて手当もきちんと付くような大きな会社に入りたいようだが、こういう仕事の本当のやりがいはそういった会社で手に入れることはないと思うのだが…
幸いに私は、今は優秀なアルバイト何人かで何とかこなしているが、彼女たちはプロの制作者を目指している訳ではないので、後継者捜しはまだまだ続きそうだ。私に何か起きてからでは遅いので、人捜しに本腰を入れなくてはいけないのに、目の前の仕事に追われている。




2015年7月31日

73 歌舞伎二題 

歌舞伎座の七月大歌舞伎と新橋演舞場の「阿弖流為(あてるい)」と、7月は2回、歌舞伎を観に行った。
「阿弖流為」は歌舞伎NEXTとかいって歌舞伎を謳っているが、戯曲は現代語の科白の物で台本、演出共に劇団☆新感線の中島かずきといのうえひでのりなので、現代劇というべきだろう。見得を切る、飛び六法を踏んで花道を去る、立ち廻りの後に足を広げてひっくり返り参ったのポーズをさせる等、随所に歌舞伎独特の演出がほどこされているが、照明、音響も現代劇のように作っていて、新感線のようにスピード感があり、笑いもあり、退屈させない。
染五郎は幸四郎によく似てきた。勘九郎も頑張っていたが、何よりも七之助のすらっとした姿の柔らかい美しさは天性の女形としての資質を感じる。会場も大変な熱気で、総立ちのカーテンコールが何度も繰り返される。そもそも伝統芸能にはカーテンコールなどないのだが…それは結構だが、その時に合わせて光るリストバンドを振るようにと、観客の腕になかば強制的に巻かせたのには参った。私も歳をとって少しは丸くなったのだろうか、文句も言わずにただ苦笑いだったが、希望者に配るぐらいにした方が良いのになあと思う。そういうのを嫌って白ける人はいるものだ。しかし、そういうことに興ざめするような人を対象にした舞台でもないか…。

さてさて、本題は歌舞伎座公演だ。今回は格別に面白くて、何日も余韻が残っていた。玉三郎を今の内に観られるだけ観ようという仲間6人と、この暑さにもめげずに出向いたのだが、会場も熱気むんむんの満員御礼、チケットは初日から千秋楽まであっという間に売り切れたらしい。私には猿之助という興味もあるが、世間的に何かと話題の海老蔵、獅童、中車も出演とあっては売切れ御免であろう。
玉三郎はまだまだ美しい。「お富与三郎」のお富の風呂上がりの艶っぽさにはため息が出る。観客も見入っている。そこへ切られ与三の名科白がかかる。「おかみさんへ、お富さんへ、いやさお富、久しぶりだなあ」。勿論、大向こうから「待ってましたっ」がかかる。しかし、海老蔵の与三は今一つ切れがない。それにつけても、数年前に観た仁左衛門の与三が忘れられない。
お富の家に与三を連れてくる、蝙蝠安のずるがしこい小物ぶりが、女物の着物をぞろりと着た獅童の演技で際立った。「南総里見八犬伝」での屋上での立ち廻りや、立ち姿の決まり具合が格好よくて、今回は仲間内でも獅童の評判が良かった。
それに比べて、中車に関しては口をつぐんで誰も何も言わない。香川照之として演技が認められているが故に、落胆の度合いが大きかったのかもしれない。現代劇でどんなに上手い俳優でも簡単にいかないのが伝統の世界だ。長い間に積み重なった約束事、様式美が一朝一夕で身に付くものではないのだ。歌舞伎の影響のせいか、テレビドラマなど現代劇での彼の演技がオーバーになってしまったという話もあるが、それこそ本末転倒というものだろう。
さあ、待ってましたっ、猿之助の登場。この日の観客の拍手は猿之助の為に鳴り響いていたように思える。六変化舞踊の早替りの度に万雷の拍手。とにかく早い。早いだけではなく、踊りの上手いこと!観ていて小気味が好い。本人も心から楽しんでやっているように見える。深紅の着物が美しい禿の愛くるしかったことったらなかった。小柄のせいか、最後の蜘蛛の精まで何だか可愛らしかった。隈取りをほどこした荒々しい姿なのにも拘わらず、何かのゆるきゃらみたいだった。これはご愛嬌。歌舞伎は出雲の阿国の頃は傾奇(かぶき)踊りと言ったという。ケレンたっぷりの猿翁一門はその本質を忘れていないのであろう。
玉三郎は、次は9月の「伽羅先代萩」だそうだ。名優による名作の名場面が今から楽しみだ。


2015年7月22日

72 第21回能楽座自主公演

8月30日に国立能楽堂で行われる「能楽座自主公演」のDM発送作業をした。1200通あるので、アルバイト二人で丸二日かかった。去年は四人にやってもらって一日で一斉に出したものだった。
今年は、金春惣右衛門師、片山幽雪師、近藤乾之助師とお三人の追悼公演である。沢山のお客様にお出で頂き、名人達を偲んで頂きたいものだ。



2015年7月15日

71 新宿御苑で打ち合わせ

石橋幸がロシアから昨日帰国した。彼女は毎朝、新宿御苑でジョギングをしていて、こんな時でも欠かさない。休むのは雨の日と休苑日の月曜日だけだ。そんな感じで10年以上は続けているだろうか。舞台人として身体を鍛え節制するのは素晴らしいことだが、誰にでも出来ることでは無い。その継続力には頭が下がるばかりだ。
お互いに新宿御苑を挟んであっちとこっちに住んでいるので、いつか突然行って彼女を驚かせてやろうと、走るコースを何気なく聞いていたりしたのだが、怠惰な私はウォーキングにさえなかなか出かけられないでいた。彼女の不在中に溜まった仕事の整理をしなければならず、ふと思い立ち今日は御苑で打ち合わせをすることにした。
今日も朝から猛暑の中を10分程歩き、千駄ヶ谷門から御苑に入った途端、すっと気温が下がるのが分かる。少し歩いただけで都会の騒音も消え、そこが東京の新宿であることを忘れさせてくれるような深閑とした緑だ。ところが、歩いていると時々西口の高層ビル群が見え隠れして、ニューヨークのセントラルパークと見まがうばかりである。NTTドコモタワーがエンパイヤステートビルみたいだ。都会の公園らしいそんな一面もある。それにしても広大で自然樹が多くて素晴らしい公園だ。
石橋との待ち合わせ場所の新宿門の休憩所まで半周、帰りは残りを半周して、今日は外周を一周したことになる。縦、斜めの路も歩いてみたい。平日のせいか、人もあまり多くなくて実に贅沢だった。せっかくこんな近くにあるのだから、もっと来なくてはと思う。歩く!という課題もそのままだし…





2015年7月6日

70 コスタリカの亡命ロシア人

ロシアのアウトカーストの唄を歌う石橋幸に会いたい、是非コスタリカに来て歌って欲しいと、コスタリカの亡命ロシア人が言ってきている。と、コーディネーターのエレーナからの言付けがあり、近々来日するとも。折悪しくロシアに行って日本を留守にしている石橋から、代理に私が話を聞くように頼まれていた。勿論、私はロシア語などしゃべれない。敬語も正しく使えるくらい日本語ペラペラのエレーナが間を取ってくれる。コスタリカから来日したロシア人夫婦は昨日、日本に着いたばかりで、私は夕方まで仕事で会えないし、エレーナは今夜の深夜発の便でモスクワに発つという合間に会うことになった。そもそもの主要人物である石橋はロシアだ。人が聞いたら、どんな国際派で忙しい人たちなんだ!なんて思うくらい不思議な出会いの時間だった。
全員が初対面。だが、待ち合わせ場所の寿司屋(築地!)に入った途端にすぐに分かった。エレーナは絵に描いたようなぽっちゃりロシア女、コスタリカ組もある種のロシア人の典型的な顔だ。ご主人のセルゲイ(なんとベタな名前!)はタルコフスキーに似ている。奥さんはオルガという名前だ。太郎と洋子というような感じかな。
よくよく聞くと、彼らは亡命者ではなかった。ペレストロイカの行先が見えない不安で業を煮やしていた頃には「亡命」が頭をかすめていたが、結局は正当に出国しているのだった。二人とも医者のインテリ夫婦だ。「コスタリカの亡命ロシア人」の表題を変えなかったのは、これがまるで小説か映画のタイトルみたいで、言葉の響きと共にちょっと気に入ったから…
実は、コスタリカと聞いた時に、石橋と「行きたいね!」という話になった。コスタリカは戦争を放棄して豊かになった国だ。対照的に隣国のドミニカ共和国などはいまだに戦争の恐怖と貧困にあえいでいる。コスタリカは、戦争がもたらすものは悲惨と空虚でしかないことを、戦争を放棄することによって改めて知らしめてくれたのだ。太平洋にも大西洋にも面していて、海も山も自然が大変豊かだという。反共の国ではあるが、共産主義の洗礼を受けているロシア人にもなじみやすい文化と人情があるのだそうだ。
行きたい国が一つ増えた。勿論、トランクひとつになって出かけるのだ。











2015年6月30日

69 〇


生存確認のブログだとしたら、10日間は空き過ぎだろうか。ぎりぎりというところかな。
空き過ぎにならない為にという工夫を思いついたのに、それすら出来ないとは…
ものすごいスピードで一日が過ぎて行くので、あっという間に10日が過ぎた。そして、今年も今日で半年が過ぎた!
私のモットーは、「もう無い」より「まだある」なのだが、さすがに今日の心境は「もう半年が過ぎてしまった」である。
でも、明日起きたら切り換えよう。今年もまだ半年あるぞ!

2015年6月19日

68 〇


ジメジメと鬱陶しい季節だ。だが、季節には季節の花があって、紫陽花は雨に濡れたところが美しい。どんなに忙しくても、道々の花を愛でることは忘れたくないと思う。

2015年6月11日

67 〇


昨日10日は、東京能楽囃子科協議会の公演も無事に終えることが出来た。
今日は昨日の片付けと、明後日の「子どものための日本文化教室」の準備。

2015年6月3日

66 トランクへ入れる物-その9 / 傘

5月最後の日曜日の31日は何とか休みになった。やりたい事はいっぱいあるが、とにかく休もうと思い、ただダラダラと何も考えずに過ごそうと決めた。よく寝た。トロトロ、ウツウツとしながら「今日も暑いなあ」と感じる。翌日のニュースによるとこの5月は観測史上最高の夏日の数だったそうだ。日本の気候から一番爽やかな5月と10月の気候が無くなってしまって何年くらいになるだろう。
日本は四季が豊かで、粋や無粋があって、いなせで優しい人々、それが気候に合っていた。それがそうもいかなくなって、日本人は東南アジア人になっていく、と言ったのはジャズミュージシャンの菊地成孔だ。それが証拠に新宿はタイ人だらけだと!? メンタリティも熱帯化、いい加減にやってないとやりきれないと言う。このめちゃくちゃなご時世、ほんと、そのせいだろうか。
私は日本の伝統文化に関わっているので、「豊かな四季が育んだ日本人の繊細な感性」などと言いがちだが、まったくの嘘つきになってしまった。

とにかく、5月は一番紫外線も強いという。私としては紫外線対策は日傘しかない。夜に雨が降ってないと置き忘れてしまうのでバッグに入る折り畳みに限る。東京は数年前から亜熱帯の特徴でもあるスコールのような現象もあるので、晴雨兼用傘が役立っているが、昨年購入した傘はあまり気に入らなかったせいもあるか、酔っぱらってどこかに置き忘れてしまった。今年はかなり吟味して選んだが、究極感はないので、最後から2番目くらいの傘だろうか。開いた時のフォルムが丸みがあって折り畳みの特徴の平べったい感じがなく好ましい。持ち易いように握り手の所は腕にかけられるタイプを選んだ。私は二つ折りタイプが好きなのだが、世の中は三つ折り全盛とかで、選択肢が少ない。
私にはこの新品の他に少し上等な傘が2本ある。あまりにも傘を失くす(大抵は酔っぱらって)ので、気をつける為に良い傘を買ってみたら効果はてきめんだった。高価な支払の代償として無意識にも気をつけるものなのだと納得している。それは、木の軸の物と持ち手が革張りの物で、25年前に買ったのだが良い物とは時間が経つとよく分かるもので、まだ生地は褪せずきれいで張りがあり新品のようにも見える。残す物3つのルールからもこの3本を残すことに決まり。最後、トランクへは折り畳みが1本あれば良い。後は処分だ。にわか雨のせいでつい間に合わせに買ってしまった物も何本かあるのだ。以前、姪たちと暮らしていた時にたまったビニール傘の数といったらなかった!まとめて行きつけの美容院の置き傘用に貰ってもらったこともあるが、もうあれはごめんだ。傘ももう増やさない。

そういえば、鞄の中にいつも折り畳み傘をしのばせている男は美しくない、と山口洋子がエッセイで書いていたというのを映画監督の旦雄二さんからの孫引きで知ったのだが、分かるような気がする。用意周到なけち臭さ、開いた時の傘のフォルムが貧相、畳む時のちまちました感じ、等々だろうか。でも、そんな事を感じたのも若い時。
旦さんは、WATERFRONTの三段折り畳み傘を常帯しているようだ。色も多彩できれい、小さくてスマートなので、私も何本か持っていた時もあるが、バッグに入っている時は邪魔にならないのでとても良いのだが、使用した後の濡れた傘をどうしてももてあましてしまうのだ。長傘のように腕にかけられないし、勿論バッグには入れられない。何となく身体から離し気味に中途半端に持っているのは私だけだろうか。そんな状態だから、電車の中で本も読めない。私がただの不器用なのかもしれないが…

2015年5月26日

65 合同読書会 漱石を読む / 『虞美人草』

今回は何と私に発表の番が回ってきた。『虞美人草』は大変な長編で、漱石も自他ともに認める失敗作とあって、ずっと気が重かった。でも、とにかく読まなくてはならない。自分では選ばないだろう本を読むのもこういった読書会の妙味であるから、と諦めた。この一ヶ月は寸暇を惜しんで『虞美人草』に向き合ってきたが、その寸暇さえままならない忙しさで、図太い私もさすがに泣きたい気持ちだった。私の多忙を御存じの津田先生は気遣って下さり、「適当に」とかおっしゃるが、そんな言葉が実は先生のボキャブラリーには無く、適当になんてやれるはずがない。勿論、先生の為に発表する訳ではないが、ちゃんとやらないと、まじめにやってきている他の参加者にも申し訳ない。

でも、とうとうこの日はやって来てしまった。
結果は、一昨日の発表の一部をここに載せることで、報告としたい。

<テキスト>
 『虞美人草』夏目漱石 岩波文庫 (1939・1・10初版)

<作品概要>
 漱石が職業作家となって初めての作品
 「朝日新聞」掲載(明治40年6月23日~10月29日) 
 題名の「虞美人草」はひなげしの別名

<文体、構成>
会話部分は落語調だったりして読み易いが、地の文は比喩が多く、美文調、擬古文でかなり読み難い。しかし、美文調に慣れてくると、日本語独特の心地よさを感じ、イメージとして映像が浮かんでくる。読んでいてイメージが立ち上るのは優れた小説であると言えるのではないだろうか。
また、五感に訴える表現が豊かである。色、匂い、音…が鮮やかに浮かび上がる。(モチーフとしての、金時計、紫色、ガーネット、着物の色柄、ヘリオトロープ、琴の音、虞美人草…等々)
登場人物が多彩でキャラクターが描き分けられていて、プロットも豊かで盛り上げる仕掛けが随所にあり、読んでいて楽しめる。
会話調で始まり、次の章では趣を変えて美文調で格調高く語る、という繰り返しかと見せて、後半は畳み込むように芝居がかったように展開する鮮やかな手法。かの大文豪に失礼だが、流石にうまいと思わせるところがある。
全体として群像劇としてもとれるし、読みようで主役が変わる多様な構成である。

<映像化>
これまでに3度映画化され、4度テレビドラマ化されている。

それ以外にも、1981年に向田邦子脚本、松田優作主演(甲野役)(藤尾役は桃井かおり)の作品が制作される予定だったが、向田邦子が飛行機事故で急逝したため、実現には至らなかった。演出の久世光彦によると、向田は亡くなった時に岩波文庫の『虞美人草』を携えていたはずだと言う。『虞美人草』は向田がやりたがった作品で、帰国したら直ちにこの作品の打合せをすることになっていたのだそうだ。そういう意味では『虞美人草』は向田邦子の最後の未完の作品とも言える。この作品のドラマ化の為に向田邦子と会ったのがきっかけとなり、松田優作がその後、森田芳光監督『それから』に出演し、俳優としてそれ以前にはなかった新しい松田優作像を作ったのは記憶にも新しい。

このように、『虞美人草』の映像化は結構多い。映像化では圧倒的に『坊ちゃん』『こゝろ』が多いが、それに次ぐ回数である。作品としては上の扱いの『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『門』などの映像化より多いということは、多くの演出家や脚本家にとって『虞美人草』は魅力ある作品であるということである。それはこの作品のプロットの豊かさや登場人物が多彩であることが要因となっているのではないだろうか。映像化したそれぞれの作品の主役が違うのも面白い。視点を変えると主役が変わるのは登場人物が多彩でキャラクターが豊かに描き分けられているということではないだろうか。

<作品評価>
正宗白鳥の批判は有名だが、その評価自体は総じて「錦繍の文体で飾った大がかりな失敗作」(三好行雄)といった言葉に要約され、おおむね酷評だ。だが珍しいことにこの作品を、『「大人」になること―漱石の場合』という文の中で枚数を割いて評価しているのは内田樹である。
「宗近くんはいわば帝大卒の「坊ちゃん」である」として、宗近と坊ちゃんの二人の青年こそ、漱石が明治の青年に文学的虚構を通じて示そうとした理想の青年像に他ならない、と述べているのだ。内田は『虞美人草』を小野、甲野、宗近の3人の青年の成長物語としてとらえている。明治という時代は人も物も旧弊をばっさり切ってしまったので、青年たちにはロールモデルがいなかった。「先生」がいなかった。この作品に続いて、畢竟、先生の存在が重きを成す『三四郎』『こゝろ』を書かなければならなかったのだ、というのである。私はこの内田説に大変共感した。

<まとめ>
結果として、私はこの作品を面白く読んだ。発表担当という理由で全編をしっかりと読んだのは良かったと思う。
漱石生前中も死後も専門家の評価が悪い中で、この小説を大いに楽しんだのは一般読者(素人)だというが、さしずめ素人の私が楽しんだのは当然と言えば当然だ。
津田先生曰く、漱石の作品は大衆文学にして純文学、広く読まれる要因であるという。そういう意味で、大衆文学に飽き足らない人が、ストーリーの展開に大衆文学の面白さを含みながらも格調高く運ぶ漱石の世界を楽しむのは自明であろう。
職業作家として初めて書く『虞美人草』に漱石が沢山の工夫を凝らしたのは想像に難くない。
『虞美人草』は漱石の失敗作ではなく、野心作というべきではないだろうか。

今現在、朝日新聞に漱石の小説が復刻連載中であり、話題になっている。そして、来年2016年は漱石没後100年だというが、改めて漱石が注目される流れはあるようだ。

<参考文献>
『夏目漱石の全小説を読む』 國文学編集部  學燈社 2007・9・25
『漱石を読む』 柄谷行人、小森陽一、他  岩波書店 1994・7・15
『「おじさん」的思考』 内田樹  角川文庫 2011・7・25
『漱石を語る2』 小森陽一、石原千秋  翰林書房 1998・12.5
『漱石論 21世紀を生き抜くために』 小森陽一  岩波書店 2010・5・27
『再読 日本近代文学』 中村真一郎  集英社
『漱石と三人の読者』 石原千秋 講談社 2004・10・20
『触れもせで』 久世光彦  講談社 1992・9・28 


以上のような発表だったが、慌ただしくやっていると、肝心なことを忘れるものだ。この作品に好意を寄せている作家にもう一人、村上春樹がいたのだ。
村上春樹は河合隼雄との対談の中で『虞美人草』とか『坑夫』が好きだと言っている。それを反映したのが『海辺のカフカ』だ。カフカ少年と大島さん(蜷川演出の舞台では、長谷川博己がやっていたっけ)が、『虞美人草』『坑夫』に関して、その魅力を話すシーンを入れているのだ。

皆がつまらない、失敗作だという物を結構楽しんだ私は何なのだと思うが、向田邦子、内田樹、村上春樹が認めているのだ。それで良いではないかと、自己満足している。

ところで、今回はさすがに半日だけ図書館に籠った。久しぶりの図書館。やっぱり図書館はいいなあ。もっともっと時間を作らなくっちゃ!


2015年5月18日

64 熊本へ鎮魂の旅

5月16日は女優中島葵の命日、今年は25回忌である。もうあれから24年も経ったのかと、昨日のことのようにあの日を思い出す。泊まり込みで看病を続けていた葵さんのパートーナーの演出家芥正彦から「もう今日一日もたないだろう」という電話を受けて、朝一番のバスに飛び乗って安曇野に向かった。もうすぐ命を終えようとしている人の前で山国の春の新緑はあまりにも輝いていた。
先日久しぶりに葵さんの夢をみた。考えてみると25回忌にあたるし、ふと墓参りに行こうかと思いつく。と、そこに芥正彦からの電話があり同じように夢を見て墓参りを思いたったのだと言う。これは葵さんが呼んでいるに違いない。
中島葵というと、森雅之の娘にして有島武郎の孫である系譜で語られることが多いが、母方の家は唄にも歌われ全国で5本の指に入ると言われたあの東雲楼である。葵さんの生まれた時は遊郭の時代ではなくなっていたが、丸窓の大きな家と立派な築山のある広い庭で近所の子どもたちと遊んでいたそうだ。乳母日傘で育った葵さんの母親が一家の為に意を決して宝塚の娘役になり、葵さんの祖父、伯母二人のために仕送りしては時々顔を見せに熊本に帰っていたが、家族は一緒にいなくてはいけないと当時の宝塚の社長に諭されて家族を神戸に呼び寄せたと聞いている。葵さんは10才くらいまではこの遊郭跡に暮らしていたのだ。一家が神戸に移り住んでからしばらくは廃屋として残っていたが、その後は長い間さら地であったらしい。あまりにも広くて買い手がつかなかったそうだ。今回、その二本木遊郭の東雲楼の跡地に行ってみると熊本朝日放送が建っていた。
昔この辺りを葵さんも歩いたのだねと、芥と歩く。当時の建物ではないだろうが、祖父や伯母たちと行っていたという「東庵」という蕎麦屋は今もあった。そぞろ歩きの後に白川の橋から振り返ると二本木遊郭跡は二本の川に挟まれた三角地帯で独特の地形だ。
中島一家が時々出かけたという島原湾にも足を延ばしてみた。晴れた日は向うに普賢岳が見えるというが、曇りがちで雨粒もポツリポツリの天気である。「葵は雨女だったからなあ、葵の涙さ」と、芥らしい。
中島家のお墓は町の中心地に近い花岡山の中復にあり、熊本駅あたりの街並みが見下ろせる絶好の場所だ。新幹線の駅舎など、何年か前に訪れた時には無かった現代的な建物がこれからもどんどん増え、街並は変わることだろう。葵さんの好きだった向日葵とお母さんが好きだった紫陽花の花をあげて、鎮魂の旅を終えた。

葵さんもその昔お祖父ちゃんに連れて行ってもらい、買物の後にソフトクリームを食べさせてもらったという「鶴屋デパート」は地元の老舗としてまだ健在で、その前からは高台にそびえている熊本城が見える。石畳の通りには路面電車も走っている。熊本は現代的な物と古い物が調和していて文化度が高い町と見える。
今時はゆるきゃらとか言ってご当地キャラクターがどこへ行っても目につき、カンベンしてくれと思うが、熊本は何と言っても一番人気の「くまもん」がいるので、そこかしこにあふれていたらどうしようかと思ったが、それほどでも無いのでほっとした。大人の町なんだなあ。この間生まれた又姪の為にぬいぐるみを買ってしまったけれど…








2015年5月12日

63 さようなら乾之助先生

宝生流能楽師の近藤乾之助先生が亡くなり、能楽界からまたお一人、名手が失われた。
通夜に参列したが、その死を悼む人で会場は溢れていた。能楽界の方も沢山みえていたが、列の前後の方々の会話から察するにご近所の方、一般の方も沢山集まっていた。乾之助先生のあたたかで気さくなお人柄であろう。
行きがかり上引き受けざるを得なくて能に関わっていた私が、能をもっと深く知りたいと思ったのは乾之助先生の舞台を拝見したのがきっかけであった。私と同様の人を何人も知っているが、そのくらい人を惹きつけてやまない舞台の数々だった。何よりも姿の美しさ、品の良さがあった。忘れられない舞台がいくつもある。
「鞍馬天狗」前場での牛若とのやり取りに男色的なひそかな色っぽさを漂わせ、ラストでは大天狗の大きさ、スピード感を見せて下さり、その対比には驚かされた。橋掛かりを軽やかに走り去る小柄な乾之助先生がとても大きく見え、もの凄い速さで(大天狗のスピードは飛行機と同じくらいと言われる)疾走していたのだ!
「鷺」のお姿も目に焼き付いている。「鷺」を演じるのは子どもか老人と言われるが、直面で橋掛かりにすっと立たれた姿は鷺そのもので、そこに居るのは一羽の白い鳥でしかなかった。
「盛久」は特筆すべきだろう。乾之助先生の「盛久」を観て、人生観が変わったと言う人を知っているが、そのくらいこれも乾之助先生らしい曲目と言える。この曲のテーマは「熱心な信仰心が命を救う」というものだが、これも直面の能で、元々のきりりとしたお顔立ちもあり、無心に祈る姿の崇高さが舞台の上の凛とした姿から伝わってくる。「盛久」は私は観客としても拝見しているが、何年か前に富山県高岡市での仕事でご一緒させて頂いたこともあった。
信仰心で救われると言えば、乾之助先生の「江口」の謡がお経より有難く、涙がこぼれたことがある。私が所属している伝統芸術振興会の前会長の南部峯希の偲ぶ会でのことだ。仮の宿であるこの世に心を留めるな、という「思へば仮の宿~」の詞章がしみじみと胸にしみる。乾之助先生のことが大好きだった南部にもきっと届いたに違いない。
鎮魂の芸能とも言われる能に長い間関わってこられた乾之助先生である。ご本人の魂が救われないはずは無いだろう。心からご冥福をお祈りしたい。









2015年5月5日

62 革手袋のクリーニング代 / 冬物整理-2

先日整理した冬物を保管クリーニングに出し、保管出来ない物は近所のクリーニング屋に出しに行く。これで冬物整理は終り。昨年夏物を整理した時にも思ったことだが、残した物で足りるかどうかは来シーズンに判明することだ。いくら厳選したとは言え、飽きっぽい私がこれで足りるかどうか、数の問題ではないことはよく分かっているつもりだ。
ところで、転居してから初めて冬物を出すことになった近所のクリーニング屋の店員さんだが、革手袋のクリーニング代で大いに悩み、特殊クリーニングなので外注だからと値段表をにらんでいる。同僚とも熱心に話し合う。単純にそこに書いてある値段じゃないの?と思うが、二人の出した結論が×2倍の値段の4,000円なり。二人の意見は、札を付ける安全ピン1個につき1件という認識なので、右手と左手は別勘定なのだと言う。革は結構高いんですよね、自分も以前にこのくらい払いましたよとのたまう。うーん、高いのは知っているけどそんなにするの?悩むところだが、出さなくてはいけないので、黒と白の内、黒だけを預けてくる。白は汚れ易いし役目が終わった感もするので、処分することにした。
私があっさり引き下がったのには理由がある。持っていった物を持ち帰るのが面倒ということもあったが、実はこのクリーニング屋さんには以前、ブラウスをワンピースと間違えて多く頂いてしまったので、と返金してもらった前例があるので、その誠実さに期待をかけたのである。別の見方をすると、よく間違えるのだなあ、とも言えるのだが…
保管クリーニングに出しに行った白洋舎で念の為聞いてみたら、2,000円だそうだ。白洋舎にしてこれだから、明らかにお二人の店員さんの間違いだろう。それにしても思い込みとは恐ろしい。手袋を片手だけクリーニングに出す人がいるんですか?という私のつっこみにも動じることがなかった。その時のことを思い出すと何だか可笑しくて、今は取りに行った時の結果が楽しみで仕方ない。









2015年4月27日

61 トランクへ入れる物-その8 / 冬物衣類

4月最後の日曜日、待ちに待った休日。春らしい気持ちの良い天気で中庭の花みずきも美しい。
でも、出かけない。せっかくの沈黙の時だ。一人静かに過ごしたい。
それに冬物も片付けなくてはいけない。冬物に関しては、ある事をふと思いつき、早く実行したかったのだ。今時はヒートテックとかブレスサーモとか発熱下着が出回っていて私も何点か持っているが、寒がりではないこともあって、あまり活用していなかった。でもこれからは大いに活用して、真冬用の厚手のニット類やツイードのパンツなどは処分しようと思っていた。これらを処分するだけで、どれだけかさばりが少なくなることだろう!
冬のコートは3点に絞る。ハレ用に軽いウールの一枚仕立ての物、ケにダウンコート、予備にライナー付きのトレンチコート。
次に春秋物コート、アウタ―類、ニット類に手を付ける。いつものルール、ハレ、ケ、予備の3種類で各3点ずつに分ける。アウターが9点、ニット類が9点、今回はここまで。冬物はかさばるので処分する分量も多く、片付け満足度も増す。でも、まだまだだ。





2015年4月19日

60 れれれの会 / 中野孝次「風の良寛」

読書会「れれれの会」の今回のテーマは「風の良寛」で、発表者はNさんだった。Nさんもいつも素晴らしい発表をしている人だ。彼女は、自分の感性で作品選びをし、世評に影響されない考察をし、受けを狙ったり奇をてらわないのでとても好ましい。それなので、発表の言葉もこちらにも素直に入ってくる。見習わなくてはいけない姿勢だ。
「風の良寛」作者の中野孝次はベストセラーになった「清貧の思想」の作者でもあり、文字通り清らかで貧しい生き方を称揚する人なので、もっぱらその視点で良寛像を分析している。まさに良寛はそういう生き方をしたので、良寛を書くことによって、飽食と欲望が渦巻く現代社会に批判を向けたものと思われる。
良寛が起居した五合庵という小さな庵にある道具は、鍋とすり鉢と茶碗、机が一台ありその上には硯と筆、片隅にはセンベイ布団がきちんと畳んである。本は「荘子」一冊のみ。何とわびしいことだ。越後の寒い冬をよくも死なずに越したものだと思う。良寛には、春の訪れを喜ぶ詞がいくつもあり、それは本当にのびやかで輝きに満ちて気持ちが良い。夏の暑さを耐えた後に感じる秋の涼しさの喜びも格別であっただろう。モノの少なさは逆に感覚に多くをもたらしてくれるのだ。このモノの無さ!これこそ私の理想!と言いたいところだが、さすがにここまでは出来ない。目指すところでもない。
世捨て人としての僧侶文人には良寛の他にも西行や一休のような第一級の文学者がいて、それぞれに魅力的だが、私にとって絶対に外せないのは種田山頭火だ。出家しても立派な行動など出来ず、これでもかこれでもかと失敗する。酒に負けてでろでろになってしまう。その駄目さから生み出される血を吐くような句に、どうしても私は惹かれてしまうのだ。ぼろぼろの黒衣を身にまとった乞食僧としての姿は似ているが、山頭火に比べると良寛は立派な人に見えてくる。
確かに良寛も何もかも捨てた人だ。寺の住職でもなく、経も読まないし、人の葬式もしてやらないので、僧であって僧ではない。見事な漢詩を作り歌をよむが漢学者でもなく歌人でもない。「万葉集」を読むが国学者ではない。雅な書を書くけれど書家ではない。だが、第一級の知識人、教養人として尊敬され慕われ、子どもと遊ぶのが好きな純粋無垢な人柄でそれが文にも反映していて、日本人に最も愛されている文人の一人である。多くの文学者が取り上げ論述しているくらい人気のある詩歌人でもある。子どもとの毬つきのイメージが強く、天真素朴な味あいだけが良寛の特徴だと思ってきたが、どうやらそれだけでこうまで人々に愛されるのではないのだというのが今回は分かったような気がする。
さて私はというと、肝心の片付けも滞っているが、五合庵のイメージを胸に刻んで、やる気を高めることにしよう。









2015年4月9日

59  〇

さっき起きたと思ったら、もう夕方だ。そんな毎日。取りあえずは元気。


2015年4月1日

58 「クイズ・ショウ」燐光群公演を観る

下北沢スズナリへ燐光群の芝居を観に行く。燐光群は好きな劇団の一つで初期の頃から観続けているが、このところちょっとご無沙汰をしていて、久しぶりだった。社会派の燐光群らしい内容でとても面白かった。社会派だがエンターティメントの要素も押さえているので、2時間以上を飽きさせない。おなじみの劇団員の演技も増々手堅くなって、息もぴったり合っている。
何よりも作者の坂手洋二の脚本が良いのだが、私達の日常に氾濫しているクイズという物を社会化して文化人類学的に分析したことが興味深い。問うこと、答えることの意味。誤答をした者が次々と消えるラストシーンはとても緊迫感があった。

緊迫感と言えば、大分前になるが、燐光群には飛行機事故を扱った作品があって、フライトレコーダーを戯曲化し世界の様々な事故をオムニバス形式で上演した物だったが、その恐怖感と緊張感から観終わった後はもうへとへとだった。間違いなく観客にメッセージが強く伝わったはずだ。折しもフランスでのあの事故があったばかりである。そんなこともあって、今でも忘れられないあの舞台を思い出した。

2015年3月25日

57  〇


3月も後一週間。年度末ともあり多忙だ。先週あたりから月末まで、夜も予定がいっぱいになってしまった。
桜も開花したようだが、花見の誘いにも応えられない。せめて道々の花を愛でることだけは忘れまいと思う。

2015年3月18日

56 早春の別所温泉

春のお彼岸頃に家族で別所温泉に行くようになってからもう何年になるだろう。まだ父が健在で、妹達も子育てが楽になった頃から、父母、私と妹二人で、春は別所、秋は県内の他の温泉に一泊旅行に出かけた。長野県内は温泉が豊富なので色々な所に出かけたが、毎年春に訪れていた別所は思い出深い所だ。両親の金婚のお祝いもした。父が亡くなってしばらくしてから、母の妹である叔母たち三人を誘うようになって、女ばかり7人で今回も賑やかだった。
別所は信州最古の温泉とも言われ、「信州の鎌倉」として歴史的雰囲気も残っている。行く度に訪れるのが、北向観音だ。厄除けとしても有名で、善光寺と一対になっているので善光寺と同じように「おびんずる様」も鎮座している。病災除けに皆が撫で回すので全身隈なくピカピカである。かくいう私もやはりすりすりするのが毎年のならわしになっている。昨年は善光寺のおびんずる様もなでなでしたので、願いは成就するだろうか。



2015年3月12日

55 「能」という芸能の不思議

昨日3月11日は、国立能楽堂で東京能楽囃子科協議会の定式能公演を行った。
折しも東日本大震災の4周年にあたり、犠牲者に弔意を表して黙祷を捧げることが検討されたが、地震発生の14時46分は演能中の予定である。10分程の誤差は仕方ないだろうと時間通り開演をした。舞囃子が何曲か続き、地震発生時間にかなり近いところで黙祷が捧げられそうになってきていた。もしかしたら…の想いで舞台モニターの時刻を見つめる。一調の「勧進帳」が終わり、一呼吸おいて、まさに14時46分ジャストに「黙祷」の号令アナウンスが入る。おそらく日本各地で何百万人の人達が時を同じくして祈りを捧げていたはずだ。何とも言えない感慨にひたる。能楽堂のスタッフも「涙が出てきてしまいました」と胸を打たれたようだった。
そもそも能には西洋的、近代的な時間やリズムの概念が無いので、とりたてて急いだり緩やかに運んだ訳では無いのだが、人智を超えた力が働いたのだろう。能にはそういう力がある。能は鎮魂の芸能とも言われるが、犠牲者の方々に追悼の想いが伝わることを願う。






2015年3月5日

54 およすく会 / 「源氏物語」帚木

月に一度の読書会、「源氏物語」を原文で読む「およすく会」は「花散里」まで読了。光源氏の流刑という暗い未来を予感するところまでで一休みして、「帚木」に戻って読み返している。今回は世に言う「雨夜の品定め」を読んだ。若き貴公子たちの女談義だが、千年の昔も今も人間模様は同じであり、男が求める女の理想像が今も変わらないのが面白い。
男性が語る形をとっているが、作者紫式部は同性の女に対して容赦はしない。いい加減な生き方をする女に対して手厳しく、見事に女の様々な醜態を描いている。だが、その語り口には独特のユーモアがあり、同性の我々も苦笑いをするばかりである。ユーモアの質が高いのだろう。

ところで、今回は田中順子先生に驚くべきことを聞いた。他の講読会の参加者の中には「源氏物語」の講読会に参加していることを秘密にしている人がいるということである。「源氏物語」を読むことがまるで色情狂のように思われるからだと言う。いかに「源氏物語」が誤解され喧伝されているかである。やはり現代訳の影響は大きいのだろう。その最右翼は瀬戸内寂聴の物だ。彼女は自身も仏門に入りながら、仏教観に裏打ちされた紫式部の「源氏物語」の世界を捻じ曲げ、ただの性愛小説におとしめた。彼女を筆頭としたこういった訳を読んで「源氏物語」とはこのようなものなのかと誤解した人が、本物の「源氏物語」から離れてしまうのは大変残念なことだ。






2015年2月25日

53 本の処分-3

最後の日曜日も休みになって、2月は奇跡的に全日曜日が連続で休めた。こんなことは本当に何年ぶりだっただろうか。ガンジーは週一日誰にも会わない沈黙の日を作ったという。一人で居る時間を持つことは大切だ。来月はとても無理なので、せっかくの休日をどっぷり静寂に浸ろうと思う。こんな時はやっぱり本の整理だろう。
本の整理に関して、取りあえず2、3ページ読んでから処分するという方法は、我ながらグッドアイデアだったと思う。読まずに処分するのはどうも性分に合わないので、ちょっとでも読むと、確認したという満足感が得られる。本の整理をしていて思わず読み込んでしまって整理にならなかったという話はよく聞くが、この2回程の試みでは何も引っかかる本は無かった。そうなるのが心配なので、今のところ面白そうな本は避けつつ整理をしているというのが実情ではあるが…

モノを減らしこそすれ増やさないと決心したのに、実は小さな棚を2つ(セット販売だったので!)購入してしまった。さすがに本だけはすぐにスッキリとはいかないようなので、仮置き場用に求めた。この棚だったら棚自体もすぐに処分出来る物だ。とにかく当分はこの棚に収まりきるくらいの本の数に減らすことを目標にしたい。今回処分するのは、雑誌20冊、単行本と文庫本で30冊、このくらいのペースで後5、6回やれば床置き分は無くなるだろう。




2015年2月17日

52 さようなら徹ちゃん-2 / 花房徹を語る会

花房徹が亡くなって4ヶ月が経ってしまった。まだまだ現実味が無い。ごく親しい者だけでいわゆる家族葬で見送ったので、いずれは偲ぶ会のようなことをしなくてはと話し合っていたのだが、花房が最後に一緒に創作活動をしていた若者達が、「花房さんらしく」と思い巡らし企画してくれた。その名も「花房徹を語る会」、会場は下北沢にある本多劇場グループの「小劇場B1」、あたかも公演のように設えた劇場で執り行った。本多グループの若い二代目は、彼の駆け出しの頃から花房のことを慕ってくれていて何かと便宜をはかってくれたものだが、花房を劇場で送ることを快諾してくれ最後の花道を作ってくれた。舞台をこよなく愛した演劇人として、劇場でお別れの会を開けた花房は本当に幸せ者だ。

当日は「立ち見」も出る盛況ぶりで200名もの沢山の人が来てくれた。(以下、敬称略、失礼します)
公演のように前日仕込み、長年の付き合いの舞台監督の小嶋次郎、美術の志田原貴子も駆けつけてくれた。音響の原島正治も久しぶりに顔を見せてくれ、照明の田向澄男は仕事が重なり来られなかったが、亡くなってから自宅での数日の「お別れの日々」に来てくれている。陣頭指揮を取っているのは、花房を師匠と仰いで病気発覚時から何くれとなく花房に仕えてくれた本多ハルで、やはり花房の弟子であることを公言する谷津かおりが進行のあれこれを確認している。メンバーが揃い客席には演出家席が設えられ、まるで公演直前の劇場である。姿が見えないのは花房だけだが、きっと演出家席に座っていたに違いない。
暁星学園、桐朋学園大学、自由劇場、六月劇場、自宅劇場、黒テント、東宝、映画関係、アルバイト仲間…、中丸新将、大石静、朝比奈尚行、綾田俊樹、二瓶鮫一、中村まり子、観世葉子…、今は懐かしい小劇場「ジァンジァン」のシリーズ「夫婦白書」の妻達、あづみれいか、福麻むつ美、有希九美、中山マリ、殊に中山は司会を務めてくれて花房ワールドに一役買ってくれた。参加者の多くは演劇仲間だったが、映画監督の旦雄二も参加してくれた。来られなかったけれど、弔電や言葉を寄せてくれたのは、永井愛、佐藤B作、太川陽介、楠美津香…、柄本明、笹野高史も「お別れの日々」に自宅に来てくれている。
偏屈なところがあった花房だが、広いつき合いだったことがよく分かる。頑固だったがそれは正直な証拠でもあったし、何よりもどこか愛嬌があった。

語る会だから色々なエピソードが話されたが、どの話もあまりご立派では無い話ばかりだった。でもそれが却って花房が愛された証拠であったことを示すものだったように思う。エピソードに事欠かない花房である。語れどもつきない会であった。花房徹の事はこれからもきっとまだまだ語られることだろう。それが彼の生きた証なのだ。
最愛の息子達イツキとセイヤ、糟糠の妻サチコ、最後のパートナーのサチコ、妹のリラに関しては、見ていても辛くて切なくて、私は今はまだ語れない。



2015年2月9日

51 トランクへ入れる物-7 / 日本国憲法

2月は暗い日曜日で始まった。やり切れない思いを抱きながら一週間が過ぎた。先週に続き完全OFFの休みが一日出来たので、遠い国で起きた凄惨な出来事に思いをはせながら家で静かに過ごすこととする。
一週間しか経っていないのに、この健忘症国家では何も無かったようにテレビなどではガハハとふざけた番組を流し続けている。安部政権の発した「こんな大変な時に政権批判など控えて下さい」という自粛ムードにまんまと乗せられているようにさえ見える。

先週の本整理の中で、最後まで残す物の候補に「日本国憲法」があった。正確には「子どもにつたえる日本国憲法」(著・井上ひさし)である。何冊かあった憲法、特に9条がらみの本の中でこの本が突出していた。著者自身が戦争の苦しさを経験し、子どもの時に公布されたこの日本国憲法を享受した喜びがひしひしと伝わってくる。また子ども向けに書いているので、基本理念が分かり易く、著者が常々標榜している「難しいことを分かりやすく」の精神にももとらない。分かりやすいことは浅い、単純ということではないのであり、子どもにも分かる程の素晴らしい「憲法」であることが、解き明かされているのだ。
憲法公布に、井上少年は「日本はもう二度と戦争で自分の言い分を通すことはしないという覚悟に、体がふるえてきた」と言う。「二度と武器では戦わない。これは途方もない生き方ではないか。勇気のいる生き方ではないか。度胸もいるし、智恵もいるし、とてもむずかしい生き方ではないか。」「なんて誇らしくて、いい気分だろう。」と。
そうやって井上ひさしに導かれて、日本国憲法を読み進んでみる。まず、憲法のエッセンスとも言える「前文」が素晴らしい!その理念の高さもあるのだろうが、格調高い名文である。
「この国の生き方を決める力は私たち国民だけにある  私たちは代わりに国会へ送った人たちに二度と戦をしないようにと しっかりことづけることにした」「私たちは代わりの人たちに国を治めさせることにした その人たちに力があるのは私たちが任せたからであり その人たちがつくりだした値打ちは 私たちのものである」という趣旨が盛り込まれた「前文」だけでも、今の政治家はしっかりと読むべきだろう。
もう二度と戦争はしない、という第9条ができてから70年近く、日本は国として戦争はしていない。そんな国は稀であり、誇って良いことである。日本は平和と豊かさを世界に示すことで、戦争がもたらすものは恐怖と貧困でしかないということを改めて証明しているのである。「何があっても武力では解決しない」「戦争はしない」という日本国憲法は人類の歴史からの私たちへの贈り物であり、しかも最高傑作だ、と井上は言う。そして世界の人々のあこがれである日本国憲法の精神をつらぬいていきたいと提言する。
そうなのだ。日本の代表である首相は宣戦布告のような発言をしてはいけないのである。その代償が、かの地で果てた日本人の命では、あまりにも悲しく情けない。


2015年1月31日

50 本の処分-2

今日は嬉しい嬉しい完全OFF日。1月12日以来の休みだ。1月もろくに休めなかった。今日は1月中にするはずだった本の整理をしたが、予定のほんの一部しか出来なかった。
本が増える理由には色々あるが、まず図書館に行く時間が無いこと、仕事柄、贈呈本が多いことと資料が必要なこと等があげられる。その上に完読しないと処分が出来ない性分である。本は床にアミーバーのように広がっていって、せっかく大きな本棚を2台処分した意味が無い。
確かめてみると、多くは読み切っていないという理由だけで取っておいていたようだ。贈呈本には読後の感想を述べなくてはいけないし、本は途中のままというのはどうも気になる。

だが、ふと白洲正子の言葉を思い出した。晩年のエッセーだったと思うが、本は大概5、6行を読めば良し悪しは分かるし、舞台でも登場した役者の立ち具合で分かるものだと。面白くないと分かって長々と最後までつき合う程、老い先は長くないし時間の無駄だとさっぱりしたものだった。私は勿論、白洲正子ほどの目利きでは無いが、これは真理である。稀に若い頃つまらなかった本がこの齢で面白く感じることもあるが、大概は読み進めない物はつまらない物だ。例え世評が素晴らしい本だとしても、つっかえる物は自分には合わなくて、大事な時間を夢中で過ごさせてくれる物では無いのだ。どんなに時間が無くても、面白い本はあっと言う間に読んでしまうではないか!
その手で処分しようと思う。最初の2、3ページ(白洲のように5、6行で分かるような達人では無い)を読むと、読まなくてよい本かどうか判断がつく。(ような気がする)
部屋の中はぽかぽかと暖かい冬の日差しの一日、お茶を飲んだりしながら本の整理。都合40冊ほどか…トランクにに入れて最後に携える本を厳選するまでまだまだ道は遠い。思ったより進まなかったけれど、こんな休日が最高なのだ。

2015年1月25日

49 〇


今日は、「子どものための日本文化教室」茶道(講師・岩田宗冨先生)だった。私達大人が考えるほど、子ども達は難しいものが苦手では無い。少しくらい難しいことの方が集中力を増すらしく、じっと静かに向き合っている。子どもには色々と教えられることが多い。
明日は合同読書会「漱石を読む」『草枕』。まだ最後まで読んでないが、こうやって改めて読んでみると、素晴らしい芸術論が散りばめられていて大変な名著である。

2015年1月16日

48 〇


明日は、「子どものための日本文化教室」大鼓を打つ、講師・柿原弘和先生。
明後日は、歌舞伎ワークショップ「南総里見八犬伝」国立劇場。長大な物語に仕掛けも色々あり、菊五郎、菊之助と好きな役者を観るのが楽しみだ。

2015年1月8日

47 2015年正月

新しい年が始まった。切れ目の無い時の流れの連続線上に新年があるにしても、気持ちが改まるのはとても良いことだ。
元旦は一人でのんびり過ごして、一年の計画、目標などにゆるゆると頭を巡らす。もうこの歳になると「一年の計は元旦にあり!」なんて気張っても、予定通りいかないことはよく分かっているので、欲はかかない。我が命題である「トランクひとつ」への片付けも滞っている。予定では10月に秋春物、11月に冬物、12月にコート類の衣類を整理するつもりだった。近々3月には、冬物をクリーニング保管に出すことになるので、その際にすることに決めた。1月にはせめて、アミーバーのように増えてゆく本を何とか減らそうと思う。
2日は、長野に帰省。特養から母を連れ出し、実家で新年会。年長は母の89才から年少はついこの間産まれたばかりの又姪まで総勢21人。今年はこの又姪の他に義理の姪も一人増えた。未婚の姪や甥もまだいるので、これから我がファミリーは人数が増える時期であろう。ずっと大家族で過ごしてきた母は久しぶりに賑やかな集まりが嬉しいらしく、分かっているのかどうなのか分からないがニコニコとしている。それで充分だ。みんなも笑い合って、酔っ払って(それは私だが)、これを幸せと言わずして何が幸せなのだろうと思う。とても有難いことだ。
翌日3日の最終新幹線で京都経由、伊勢参りに。大津で仲間と合流して車で伊勢に向かい、深夜2時に到着。一息ついて2時半より月讀宮からお参りを始める。この時間が大事なのだそうだ。朧月夜の柔かい光につつまれた深閑とした森の中の宮でのお参りは清々しく、とても身が引き締まる。次に五十鈴川を渡って内宮のお参りへ行く。こちらは早朝にも拘わらず熱心な参拝者が多い。まだ暗い内に伊勢神宮の参拝をするのは初めてだが、とても重々しく厳粛であった。
気も引き締まったお参りの後は、朝食に名物の手こね寿司、赤福の善哉を頂く。冷え切った身体に熱々の善哉が沁みる。お参り中は寒さなど感じることなど無かったのだが、この時期の日の出前である。さすがに冷えきっていた。
帰りはまた大津、京都経由で帰京。京都駅で夕食用の京弁当と生八つ橋を買い、帰路へ。4日ともあり新幹線は凄い混み具合なので、名古屋で降りて名古屋発こだまに乗り換え3時間かけゆっくり座って眠って帰って来た。急ぐことは無いのだ。そんな気持ちにさせてくれるお参りであった。