今春、静養の為に出かけた旅に携帯したのが、佐藤愛子の『ああ面白かったと言って死にたい』と、買ったまま読まずにいた『晩鐘』の2冊だった。佐藤愛子は好きな作家の一人で、威勢がよくて読むと元気が出て励まされるからだ。
ただ、旅先で読むには『晩鐘』は厚すぎて、やはり開く気にはなれなかった。『ああ面白かった~』の方は、今までの作品から編集者が拾い集めたという箴言集とかで、これも上っ面ばかりで面白くない。一つの流れの中にある一かけらの言葉だけを掬い上げても、全体が見えず全く響いてこないのだ。言葉とは、書かれたその形の中でこそ活きるのであろう。結局、本はそのまま積読状態だった。
先日ある雑誌をパラパラとめくっていたら、佐藤愛子の近影が載っていて、その若さ、美しさ、かっこよさに驚嘆した。しかもお馴染みの着物姿では無く、洋装。年配向けでは無いデザインのジャケットとパンツだ。姿勢も良く、堂々としている。元々、美人ではあるが更にきれいになったような気がする。そのお姿を見ただけで、すっかり元気になった私はやっと『晩鐘』を手にした。そして、この長編をあっという間に読んでしまった。
大変な大作である。佐藤愛子の私小説でもあり、戦後の貧乏な文学青年達の群像劇としても読めてとても味わい深い。面白い小説は、最後にカタルシスを覚える物であると私は思っているが、この作品は、それを充分に満たす物であった。
佐藤愛子はこの長編を88歳から書き始めて2年間で書き上げたという。まさに偉業だ。今この歳で取りかかれずに何ヶ月も放っておいた私である。88歳で果たして読めるだろうか…ましてや書くなんてことはおそらく不可能だ。凄いとしか言いようがない。
先日、特養の母に会いに行ったばかりだが、母は佐藤愛子と同世代、2歳下だ。この面影の違いは情け容赦もない。だが、「そのように生きてきた」と受け入れる外はないのだ。『晩鐘』が教えてくれるものはそういったことでもある。