2016年10月30日

120 夏服整理はほぼ完成 

10月に入っても夏日が2日程あり、9月はほとんど夏だった。それでも季節感からさすがに真夏に着る服に腕は通さなかったけれど、なかなか夏服の整理が出来ないでいた。昨日、今日の寒さはまるで冬。近頃の日本の気候に心地よい春も秋も無くなってしまったことを嘆きつつ、夏服の整理をする。
何よりも自分でも驚いていることは、今年は何も購入しなかったことである。こんな事は物心ついて初めてかもしれない。誰でも大抵Tシャツや靴下の一枚くらいは買うだろう。片付けの為に我慢した訳では無いし、元より、節約生活が私の目的ではないが、洋服が少なくなって風通しが良くなると、全体が見えて着られる服が見繕いし易くなったのだ。今まではあることを忘れて同じような物を買ってしまう失敗を何度も繰り返した。
今年もまた渋谷区のリサイクル拠点回収に14点出し、ゴミ処分するのは3点程だ。結果、夏服は42点になった。まだ余分だと思える物もあるが、最初の整理の時は116点あったので2年かけてやっと三分の一になったのだ。「フランス人の10着」にはほど遠いが、全体が見えているのでいつでもバサッとやれる自信が出来た。ここまで来ればほぼ完成と言っても良いかなと独り言ちている。
若い頃は洋服が増えるのが嬉しかったが、今は減って喜んでいるのだから皮肉なものである。

処分する物もだんだん少なくなってきた




2016年10月20日

119 誕生日

昨日は誕生日だった。
朝一番ベッドの中でつけたラジオから、KatyPerryの「Birthday」が流れる。偶然とは言えあまりにもタイムリーで、Katyのソフトボイス「happy birthday」に文字通り、ハッピーな気持ちで目覚める。パソコンに電源を入れるとここにも誕生日を祝うイラストが…そして、facebookには、沢山の人からお祝いメールが来ている。自分の誕生日も忘れかねない(忘れたい?)歳になったが、世間が忘れさせてくれない。有難いのか、どうか…
まずはせめてと思いつき、疲れ切った自分の身体へのプレゼントとして、「MRT恵比寿」へ仙骨の調整に行く。
午後から出かけた「石橋幸コンサート」のリハーサル会場では、アコーディオンの後藤ミホコさんから拍手で迎えられ、彼女には私の大好きな「こけし屋」のレーズンパイをプレゼントしてもらう。
21日の本番が迫っているので、メンバーとは連日顔を合わせていて、石橋幸とコントラバスの河崎純君とギターの小沢あき君からは、前日に「happy birthday to you」の演奏をプレゼントしてもらった。プロのミュージシャンの生演奏で一人貸し切り状態で、贅沢この上ない。

今年は、誕生日が近い頃から何故か「門松は冥土の旅の一里塚」の一休の狂歌が、頭にちらついていた。昔は大晦日に歳をとったので、正月は誕生日でもある。この歌を若い頃は、老人の悲哀の気持ちが込められた歌と思っていたが、歳をとった今はそうネガティブな句ではないと思うようになった。一歩一歩あの世に近づき、残り少なくなって行く日々をどう生きるかを考えるのは悪くはない。大事な時を自分の身体と心を楽しませることだけに使いたい、と思うのは幸せなことだ。暇を持て余すヒマはない。「お楽しみはこれからだ」なのだ。時が永遠とも思えた若い頃には思いもしなかったことで、今は一時一時が大切だ。これからは更にそうなることだろう。
と言いながら、これからも毎日を忙殺されて過ごすことにそう変わりはないだろうが、誕生日という節目にそう考え、感慨にふけるのも誕生日の意義なのかもしれない。









2016年10月12日

118 この92歳にはとても驚いた! / 佐藤愛子

今春、静養の為に出かけた旅に携帯したのが、佐藤愛子の『ああ面白かったと言って死にたい』と、買ったまま読まずにいた『晩鐘』の2冊だった。佐藤愛子は好きな作家の一人で、威勢がよくて読むと元気が出て励まされるからだ。
ただ、旅先で読むには『晩鐘』は厚すぎて、やはり開く気にはなれなかった。『ああ面白かった~』の方は、今までの作品から編集者が拾い集めたという箴言集とかで、これも上っ面ばかりで面白くない。一つの流れの中にある一かけらの言葉だけを掬い上げても、全体が見えず全く響いてこないのだ。言葉とは、書かれたその形の中でこそ活きるのであろう。結局、本はそのまま積読状態だった。
先日ある雑誌をパラパラとめくっていたら、佐藤愛子の近影が載っていて、その若さ、美しさ、かっこよさに驚嘆した。しかもお馴染みの着物姿では無く、洋装。年配向けでは無いデザインのジャケットとパンツだ。姿勢も良く、堂々としている。元々、美人ではあるが更にきれいになったような気がする。そのお姿を見ただけで、すっかり元気になった私はやっと『晩鐘』を手にした。そして、この長編をあっという間に読んでしまった。
大変な大作である。佐藤愛子の私小説でもあり、戦後の貧乏な文学青年達の群像劇としても読めてとても味わい深い。面白い小説は、最後にカタルシスを覚える物であると私は思っているが、この作品は、それを充分に満たす物であった。
 佐藤愛子はこの長編を88歳から書き始めて2年間で書き上げたという。まさに偉業だ。今この歳で取りかかれずに何ヶ月も放っておいた私である。88歳で果たして読めるだろうか…ましてや書くなんてことはおそらく不可能だ。凄いとしか言いようがない。

先日、特養の母に会いに行ったばかりだが、母は佐藤愛子と同世代、2歳下だ。この面影の違いは情け容赦もない。だが、「そのように生きてきた」と受け入れる外はないのだ。『晩鐘』が教えてくれるものはそういったことでもある。







2016年10月3日

117 この84歳はとても素敵だ! / 岸恵子

チケットを譲ってくれる人がいて、岸恵子の一人芝居「わりなき恋」を観に行ってきた。岸恵子は好きな女優の一人であり、その生き方を含めて憧れの人でもある。
満席の客席は約2000人でびっしり埋まっている。さすがにスター女優と呼ばれる人である。圧倒的に中高年の女性が多い。男性は本当に少なくチラホラだ。不思議な客層で、私がいつも行く新劇、小劇場、アングラの客層と明らかに違う。能、歌舞伎を観に行く層ともちょっと違う。開演前の客席の騒めきもあまりうるさくなく、観劇中のマナーも悪くなかった。オバサンがこれだけ集まっていれば、マナートラブルが起こったりするのだけど、不思議な静けさだった。類は友を呼ぶで岸恵子のファンはお上品な人が多いのかもしれない。
さて舞台はというと、舞台女優でもない人に一人芝居をやらせようなんて土台無理な話で、元より演技力に期待をかけるタイプの女優でもない。だが、随所に工夫は凝らしているので、最後まで飽きることなく観ることが出来た。そして、何よりも岸恵子の美しさである。その現実離れをした美しさはどんな卓越した演技力を持った女優でも決して作れない。そこに存在するだけで充分なのだ。
観劇の後、私の後ろのオバサマ二人組が歩きながら言う。「きれいだったわねえ。あの方幾つだったかしら?」「だってもう…私たちより10歳上なんだから…」「姿勢がとても良かったわね。私たちも頑張りましょうね!」 って、おいおい… 

憧れとは?と思う。へたな努力をしても足元にも及ばないからこその憧れの対象である。現実離れをしていればいるほど憧れは勝る。真似しようなどとは思わない。ただ憧れるだけ。憧れの人の存在は、人を幸福な気持ちにさせてくれるのだなあと改めて思う。