2016年1月4日

90 2015年大晦日 / 2016年正月

今年も大晦日と元旦が休みになって、一年の最後の日に一年を振り返り、最初の日にこの一年の予定など考えるというパターンが出来つつあり、気に入っている。ちょっとした時間だが、これが大切。2015年も忙しく、訳わからずに年末になだれ込んだという感じだが、2014年のように海外旅行に行ったり、親しい人との別れとか、大きな出来事は少なかったような気がする。悲しいことも幾つかあったが、楽しかったことの方が多かった。(ような気がする)
まったくもって、生来のオプティミストではある。
このところ姪や甥が年頃ともあり、結婚、出産が続いていて、2015年も又甥誕生という嬉しい出来事があった。愛くるしく笑う赤ちゃんを抱っこしながら、この子たちの将来が幸福であるようにと願わずにはいられない。
さて、我が命題である片付けだが、2015年はあまり進まなかった。だが、一つ大きな決心をして処分したモノがあり、それだけで今回は満足しているところがある。それは運転免許を更新せずに手放したことだ。元より筋金入りのペーパードライバーでもあり、老害事故が頻発し問題になっているこのご時世に、私にとって「いつか」の可能性は最も無いものだった。それなのに、手放さない理由には「また取得するのは大変」「お金がかかっている」「身分証明として最適」等々で、現実味はあまり無い。やはりペーパーの同い年の友人に聞いてみたが、皆、もう一回くらいは更新したいと言う。更新手続きはそう大変では無いが、熟慮の末に私は更新するのを止めた。
片付けするのは物だけでは無い、とつくづく思う。物を手放さない理由は良くも悪くも「拘り」という精神的なモノに他ならない。免許を手放した途端に気持ちがとても軽くなった。爽やかでさえあった。それは手放したものの意味の大きさ故に違いない。
2016年元旦は一人のんびり、一杯やりながら、今年のことを考える。より一層、片付けに邁進したいところだ。運転免許のことで学習した「片付けするものは物では無い」という確信は、仕事にも当てはまる。今やっているのは本当にやりたい事だけか?義理に縛られていないか?そう考えると手放すモノが明らかに見えてくる。人が介在しているだけに難しいが、何とか一歩進んで身軽になりたいものだ。
2日は昨年と同様、帰省して特養から母を連れ出し、実家で家族で新年会。生後4ヶ月の又甥が皆の笑いを誘う。母も自分のひ孫とは認識出来ないが、「いい子だ、いい子だ」とニコニコしながら抱っこすることが出来た。母の病状は進んでいるので、長いこと同じ所に居られなくて「帰りたい」と言うのが早くなった。帰る家はここしか無いのにと思うが、気持ちを荒立てては可哀そうなので、妹二人と特養まで送りとどける。
そして東京に戻り、その足で東海道新幹線に乗り、名古屋経由で伊勢神宮参拝。これも年中行事になった。先導者がいるので、正しい参拝が出来る。まず月讀宮より参拝、内宮には8時頃到着。沢山の参拝客で溢れんばかりだが、あまり滞ることなく列は粛々と進む。今年は殊に清々しく素晴らしいお参りであった。
参拝後は同行者の御縁で、伊勢志摩の温暖な静かな湾を臨む割烹旅館「橘」で牡蠣づくしの美味しいお料理を頂く。鳥羽まで送ってもらい、近鉄、新幹線で帰京。一見、慌ただしい行程だが、とてもゆったり過ごした気分だった。あたり前だが、結局、大事なのは精神の持ちようということなのか。今年は一年こうありたいものだ。