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3月も後一週間。年度末ともあり多忙だ。先週あたりから月末まで、夜も予定がいっぱいになってしまった。
桜も開花したようだが、花見の誘いにも応えられない。せめて道々の花を愛でることだけは忘れまいと思う。
2015年3月25日
2015年3月18日
56 早春の別所温泉
春のお彼岸頃に家族で別所温泉に行くようになってからもう何年になるだろう。まだ父が健在で、妹達も子育てが楽になった頃から、父母、私と妹二人で、春は別所、秋は県内の他の温泉に一泊旅行に出かけた。長野県内は温泉が豊富なので色々な所に出かけたが、毎年春に訪れていた別所は思い出深い所だ。両親の金婚のお祝いもした。父が亡くなってしばらくしてから、母の妹である叔母たち三人を誘うようになって、女ばかり7人で今回も賑やかだった。
別所は信州最古の温泉とも言われ、「信州の鎌倉」として歴史的雰囲気も残っている。行く度に訪れるのが、北向観音だ。厄除けとしても有名で、善光寺と一対になっているので善光寺と同じように「おびんずる様」も鎮座している。病災除けに皆が撫で回すので全身隈なくピカピカである。かくいう私もやはりすりすりするのが毎年のならわしになっている。昨年は善光寺のおびんずる様もなでなでしたので、願いは成就するだろうか。
別所は信州最古の温泉とも言われ、「信州の鎌倉」として歴史的雰囲気も残っている。行く度に訪れるのが、北向観音だ。厄除けとしても有名で、善光寺と一対になっているので善光寺と同じように「おびんずる様」も鎮座している。病災除けに皆が撫で回すので全身隈なくピカピカである。かくいう私もやはりすりすりするのが毎年のならわしになっている。昨年は善光寺のおびんずる様もなでなでしたので、願いは成就するだろうか。
2015年3月12日
55 「能」という芸能の不思議
昨日3月11日は、国立能楽堂で東京能楽囃子科協議会の定式能公演を行った。
折しも東日本大震災の4周年にあたり、犠牲者に弔意を表して黙祷を捧げることが検討されたが、地震発生の14時46分は演能中の予定である。10分程の誤差は仕方ないだろうと時間通り開演をした。舞囃子が何曲か続き、地震発生時間にかなり近いところで黙祷が捧げられそうになってきていた。もしかしたら…の想いで舞台モニターの時刻を見つめる。一調の「勧進帳」が終わり、一呼吸おいて、まさに14時46分ジャストに「黙祷」の号令アナウンスが入る。おそらく日本各地で何百万人の人達が時を同じくして祈りを捧げていたはずだ。何とも言えない感慨にひたる。能楽堂のスタッフも「涙が出てきてしまいました」と胸を打たれたようだった。
そもそも能には西洋的、近代的な時間やリズムの概念が無いので、とりたてて急いだり緩やかに運んだ訳では無いのだが、人智を超えた力が働いたのだろう。能にはそういう力がある。能は鎮魂の芸能とも言われるが、犠牲者の方々に追悼の想いが伝わることを願う。
折しも東日本大震災の4周年にあたり、犠牲者に弔意を表して黙祷を捧げることが検討されたが、地震発生の14時46分は演能中の予定である。10分程の誤差は仕方ないだろうと時間通り開演をした。舞囃子が何曲か続き、地震発生時間にかなり近いところで黙祷が捧げられそうになってきていた。もしかしたら…の想いで舞台モニターの時刻を見つめる。一調の「勧進帳」が終わり、一呼吸おいて、まさに14時46分ジャストに「黙祷」の号令アナウンスが入る。おそらく日本各地で何百万人の人達が時を同じくして祈りを捧げていたはずだ。何とも言えない感慨にひたる。能楽堂のスタッフも「涙が出てきてしまいました」と胸を打たれたようだった。
そもそも能には西洋的、近代的な時間やリズムの概念が無いので、とりたてて急いだり緩やかに運んだ訳では無いのだが、人智を超えた力が働いたのだろう。能にはそういう力がある。能は鎮魂の芸能とも言われるが、犠牲者の方々に追悼の想いが伝わることを願う。
2015年3月5日
54 およすく会 / 「源氏物語」帚木
月に一度の読書会、「源氏物語」を原文で読む「およすく会」は「花散里」まで読了。光源氏の流刑という暗い未来を予感するところまでで一休みして、「帚木」に戻って読み返している。今回は世に言う「雨夜の品定め」を読んだ。若き貴公子たちの女談義だが、千年の昔も今も人間模様は同じであり、男が求める女の理想像が今も変わらないのが面白い。
男性が語る形をとっているが、作者紫式部は同性の女に対して容赦はしない。いい加減な生き方をする女に対して手厳しく、見事に女の様々な醜態を描いている。だが、その語り口には独特のユーモアがあり、同性の我々も苦笑いをするばかりである。ユーモアの質が高いのだろう。
ところで、今回は田中順子先生に驚くべきことを聞いた。他の講読会の参加者の中には「源氏物語」の講読会に参加していることを秘密にしている人がいるということである。「源氏物語」を読むことがまるで色情狂のように思われるからだと言う。いかに「源氏物語」が誤解され喧伝されているかである。やはり現代訳の影響は大きいのだろう。その最右翼は瀬戸内寂聴の物だ。彼女は自身も仏門に入りながら、仏教観に裏打ちされた紫式部の「源氏物語」の世界を捻じ曲げ、ただの性愛小説におとしめた。彼女を筆頭としたこういった訳を読んで「源氏物語」とはこのようなものなのかと誤解した人が、本物の「源氏物語」から離れてしまうのは大変残念なことだ。
男性が語る形をとっているが、作者紫式部は同性の女に対して容赦はしない。いい加減な生き方をする女に対して手厳しく、見事に女の様々な醜態を描いている。だが、その語り口には独特のユーモアがあり、同性の我々も苦笑いをするばかりである。ユーモアの質が高いのだろう。
ところで、今回は田中順子先生に驚くべきことを聞いた。他の講読会の参加者の中には「源氏物語」の講読会に参加していることを秘密にしている人がいるということである。「源氏物語」を読むことがまるで色情狂のように思われるからだと言う。いかに「源氏物語」が誤解され喧伝されているかである。やはり現代訳の影響は大きいのだろう。その最右翼は瀬戸内寂聴の物だ。彼女は自身も仏門に入りながら、仏教観に裏打ちされた紫式部の「源氏物語」の世界を捻じ曲げ、ただの性愛小説におとしめた。彼女を筆頭としたこういった訳を読んで「源氏物語」とはこのようなものなのかと誤解した人が、本物の「源氏物語」から離れてしまうのは大変残念なことだ。
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