今日は久しぶりの完全オフだった。この4月から週1休みとして月4日くらいは休もうとやってきたが、結果的には月2の完全オフに半休3、4日で、月4日は休んだことになる。上出来だ。意識的に休むようにして良かったことは、例え少ない休みでも「休んだ」という認識が残るので、休んだような気がしなかった以前の休みとは充足感が違うのだ。
さて、我が命題である「トランクひとつ」への整理は忘れていない。今月はバッグ類と決めてあれこれ考えてきたが、今日はいよいよ決行だ。何か片付けをする時はルールを決めないと収拾がつかなくなるので、自分なりのルールを決めた。「ハレ、ケ、予備」の基準で3点ずつ選っていくことにしたのだ。まずは、トランク行き(最後まで使う)の3点。まだしばらく(10年くらい?)は仕事をすることになるだろうから、その現役中に使う物3点、臨時(旅行、冠婚葬祭等)に使う物3点、計9点。何か壊れたり古くなってしまった時だけ新しくする。常に9点で、かなりのスリム化だ。
まだ旅行にも行きたいし、行けるので、一週間用くらいの旅行ケースは必要だ。お土産など荷物が増えた時用のたためるトートバック、観劇、食事等のお出かけ用の小バックもその中に入れておこう。仕事用には、沢山入るトートバッグは便利だが、仕事柄、書類等紙類を持ち歩くことが多いので重過ぎて、何年か前に肩を痛めてしまい、以来、ハンドバッグとブリーフケースに分散して持つことにした。最後には、改まった場所にも大丈夫なオーソドックスな黒のハンドバッグ、洋服にも和服にも合うビーズの手提げ、軽い2ウェイ(ショルダー、リュック)バッグの3点になるはずだし、それで充分な気がする。これでどこまでやれるだろうか。今までは、素敵なバッグでも見かけるとすぐに買ってしまったものだが、どうだろう。物を少なくしてシンプルに生きる満足感がその物欲に勝るかどうか。
でも、こうやって処分する物を見てみると、ろくに使わなかった物も多い。これからは選び抜いた物をとことん使い尽くそうと思う。使い尽くして、壊れた時に改めて新しい物を買いたい。数はこれで決まり。
ところで、どうしても必要とは思えないが、処分出来なかった物が一つある。それは、トニー賞にノミネートされた者だけに与えられるトートバッグである。
NYで20年以上アーチストとして活躍している友人のMさんからもらった物だ。Mさんは石岡瑛子の遺品整理を手伝い、その時に譲り受けたこのバッグを「舞台製作をしているあなたに相応しいと思って」と私に譲ってくれた。トニー賞なんて! 考えたことも無いし、目指したことも無い。これからも縁は無いだろう。これは、ある意味、相当貴重品だ。日本人では数名しか持っていないだろう。確か昨年、日本人で初めて受賞したプロデューサーがいたと思うが、いずれにしても希少価値ではあり、あだやおろそかに処分は出来ない。もしここに、演劇、ミュージカルでブロードウェイを目指す若者がいたのならば、夢と共に譲りたいくらいである。
トニー賞といえば、つい先日の受賞式にスティングが新しいミュージカル「The Last Ship」のパフォーマンスで出演していたが、舞台はいつから始まるのだろう。楽しみで楽しみで仕方がない!

読書会「れれれの会」の今回のテーマは「楢山節考」で、発表者はKさんだった。Kさんはいつも素晴らしい発表をして、メンバーから「あまりすごい発表をすると後がやり難いから、ほどほどにしてね」と言われるような人だ。「連合赤軍事件を考える」の時は、彼女の仕事関係でもある映画からのアプローチで始め、参考文献35冊を読み、心理学的に密室状況下の問題まで言及した。幸田文「きもの」の時は、彼女の趣味でもあるアンティーク着物のコレクションを持参し、色彩、手触りを実際に確かめて、明治時代に生まれた主人公の着物へのこだわり、生き方を検証した。
ことほどさようにあまりのこだわり故に、発表の前日は徹夜をしてしまうとのことだった。そんなこともあり、真面目な津田先生まで「徹夜などして頑張らなくてもよし、適当にやって下さい」などと、普段の先生のボキャブラリーに無いことをおっしゃる。Kさん、今回は「二時間は寝ました!」と。しかし、やはり、レジュメは18枚!そして、素晴らしい発表で、発表後の討論も活発だった。
「楢山節考」は私も今まで何度か読んでいる。その度に新しい発見と感慨がある大変な名作だと思う。津田先生も近代文学短編小説の三大傑作の一つであるとおっしゃる。武田泰淳、伊藤整、正宗白鳥、等、作家達も絶賛している。
親を老人ホームに入れることなどを「現代の楢山節考」と例えられることが多いが、これは的外れな例えである。「高齢社会への警告」などという捉え方も見当違いだ。「楢山節考」で深沢七郎の描いている世界はもっと深い。歴史的にも民俗学的にも、現代の倫理観では捉え切れない死生観がそこにはあるように思える。私は「人は自ら死んではならない」と最近まで思ってきたが、人間だからこそ自らの死を選んでも良いのではないかとふと思うことがある。「楢山節考」のおりんが自ら進んでお山行きを願うのはそれとはまた違うが、社会のルールに従っているだけではない死生観がそこにはある。終章の、凄惨なはずのお山の風景が何故か美しく感じられるのは、雪の効果と共に聖俗を超えたおりんの澄みきった精神性がそこにあるからに違いない。
映画でも、木下恵介版、今村昌平版共に、ラストシーンは同じ解釈だったと思う。内容はまったく対照的な捉え方であったが。映画では他に、新藤兼人の「生きたい」の劇中劇としての吉田日出子の老婆が印象的だった。彼女の女優としてのキャラクターと相まって、イノセントで神々しい姿が忘れられない。
能「姨捨」はもっと聖俗を超えていて、老人遺棄の悲惨さはない。月の光の精のような透明度の高い老女が舞うことで、浄化された清らかな世界を見せてくれる。無常のこの世を脱し、解脱した者の神々しさがそこにはある。私の尊敬する近藤乾之助師の「姨捨」では客席ですすり泣きがおきた。捨てられた悲しみというような俗っぽい感情では無く、人の世の無残さ、聖俗超えた透明な哀しみ、その崇高性に対する感動の涙だったように思える。
自然死とはどのような状態までを言うのであろう。現代は医療も発達し、望まない延命もあり得る。「ぴんころ」が理想の最後とも言われている。私は望まないことはされたくないので、自分の希望を書き残したが、果たしてどうなるのか、その時にならないと分からない。


甥が長野市で結婚式を挙げるというので、会場が善光寺近くともあり、何十年ぶりに善光寺にお参りに行って来た。一生に一度はと喧伝されるほどの名刹であるので、長野県人としては小学校の間に一度は遠足で行くところである。私たちの年は御開帳と重なったので、日帰りでは無く一泊だった。翌年予定されている修学旅行に先んじて、初めて友達と外泊出来る興奮と楽しさだけが記憶に残っており、御開帳の有難さは一切覚えていない。まあ小学校5年生なんていうものはそんなところだろうが、その時有難さ感じているくらいだったら、今の私はもっとマシな者になっていたに違いない。
久しぶりに訪れた善光寺はやはり立派だった。山門も仁王門も堂々としている。
線香をあげ煙を身体に頂き、本堂に入る。すぐの所に、びんずる尊者が鎮座している。通称「おびんずる様」と言って、病人が自らの患部と同じところに触れ、尊者の神通力にあやかって治して頂くという信仰である。ここのところ右膝が不調な私は右膝をすりすり、せっかくだから(?)ほかの部分もなでなで。おびんずる様は何百万という善男善女に撫でられたのだろう。頭の天辺から足のつま先まで隈なくぴかぴかである。庶民信仰とはこういうものだろう。
善光寺参りの中で特筆すべきは「お戒壇巡り」である。これはさすがに昔の10才の私の記憶にもかすかに残っていた。御本尊様の下、一寸先も見えない暗闇の中を手探りで進む感覚はとても印象深い。お戒壇の中の暗闇は無差別平等の世界をあらわしているという。確かに暗闇の中では、日常の様々なとらわれの心を離れ、手探りで一心に出口に向かう。そこには手の感触といつか見えるはずの出口の光を求める心があるだけなのだ。それはどんな人間にとっても同じはずだ。
善光寺では、勿論、甥達夫婦の幸福も祈ったが、その結婚式も無事に終わった。
輝かし過ぎる新郎新婦のプロフィールの発表も無く、泣かせの演出も無く、やたらとおしゃれに凝り過ぎず、オーソドックスで笑いのある心温まるとても良い結婚式だった。衣装も最近は芸人みたいにピカピカなのが多い中で、地味目だが品があって二人とも背が高いので却って引き立っていた。泣き虫だった昔の甥を思い出してはよくからかっていたが、立派になったものである。
二人は青年海外協力隊で派遣されたモンゴルで知り合ったので、その共通の友人たちが受付を手伝ってくれ、民族衣装を身につけ受付周りもモンゴル色豊かに設えてくれていた。
モンゴルの音楽、馬頭琴とホーミーの演奏者も駆けつけてくれ、モンゴル色に彩りを添えてくれた。馬頭琴はとても縁起の良い楽器とも聞く。甥夫婦に幸あれと願いつつ、遥か草原の音に耳を傾けた。
