「一週間程、入院できますか?」目の前の白衣の女医さんが、事も無げに言う。えっ、こんなに元気なのに!?
朝晩と2回点滴をした方が良く、通院だと一回になってしまい効果が薄くなるからと言う。家から徒歩10分だから朝も晩も何回だって通いますよと言うと、衛生的な理由から通院での点滴は日に1回という規則なんだそうだ。よく分からないけど、今の状況で入院はあり得ない。
私には、ちょっと無理をした時などになる「唾液腺炎」という持病がある。病気と言う程の物では無く、注意信号のような物だ。疲れて抵抗力が弱った時などに唾液腺の出口が詰まり、喉が腫れ、飲食物の通りが悪くなり、唾を飲み込むのも痛くなる。そういう症状が出た時は、ゆっくり休んだり、いつものように仙骨の調整をして、身体のバイブレーションを高めて2、3日で治して来た。ところが今回はそうも行かず、大変な炎症になってしまっていたのだ。顔の左側がお多福のように腫れて痛い。白血球は10000を超える数値で、明らかに大きな炎症がおきていることを示している。CTによると左の唾液腺に5㎜の石が見つかった。だが、医者が検査前に脅かした「何か腫瘍でも」の疑いは晴れ、少なくとも首から上はきれいなものだった。「何か血液をサラサラにする薬を飲んでますか?」と言われる程、血液はサラサラ、血圧もほぼ平常値、体温も全くの平均値。頭も痛くなく、だるくもない。
30年前に「腎盂炎」で入院したことがあるが、その時は40度を超える高熱でガタガタと震える私を父と母が両側から抱えてくれ、座ることさえままならず、頭は朦朧としていた。入院とはそういった状態にでもならないとあり得ないだろうというイメージの私には、唐突でしかない入院の勧めである。
今の私は喉が痛く、喋ることも不自由で唾もまともに飲み込めないような状態ではあるが、一人でさっさと歩けるし、朦朧ともしていない。
結局、検査の結果が思ったより良かったせいか、最後はそう強くは入院を勧められることは無かった。職場のスタッフの中には「いっそ入院した方が休めたんじゃないですか?」と言う者もいる。私も一瞬考えない訳では無かったが、ホテルではあるまいし、病院での休暇はあり得ない。
そんな訳で、この土日も休日診療で点滴を受けて来た。休日の病院の外来待合室はがらんとして暗く静かだった。いつも病人がそれぞれの苦しみや辛さを抱えて蠢いている空間も、休日が安息の時間なのかもしれない。
熱い日本茶をすする、冷たいビールをごくごくと飲む、こんな些細な楽しみがどんなに幸福なことか!誰でもそうだろうが、病気をした時に改めて健康の有難さを実感する。この数日はゼリーとマヌカハニーだけしか口に入れていない。あれも食べたい、これも食べたいで、街を歩くと誘惑だらけだ。治ったら、熱々のラーメンをふうふうしながら思いきりすすりたい。
2016年1月24日
2016年1月14日
2016年1月4日
90 2015年大晦日 / 2016年正月
今年も大晦日と元旦が休みになって、一年の最後の日に一年を振り返り、最初の日にこの一年の予定など考えるというパターンが出来つつあり、気に入っている。ちょっとした時間だが、これが大切。2015年も忙しく、訳わからずに年末になだれ込んだという感じだが、2014年のように海外旅行に行ったり、親しい人との別れとか、大きな出来事は少なかったような気がする。悲しいことも幾つかあったが、楽しかったことの方が多かった。(ような気がする)
まったくもって、生来のオプティミストではある。
このところ姪や甥が年頃ともあり、結婚、出産が続いていて、2015年も又甥誕生という嬉しい出来事があった。愛くるしく笑う赤ちゃんを抱っこしながら、この子たちの将来が幸福であるようにと願わずにはいられない。
さて、我が命題である片付けだが、2015年はあまり進まなかった。だが、一つ大きな決心をして処分したモノがあり、それだけで今回は満足しているところがある。それは運転免許を更新せずに手放したことだ。元より筋金入りのペーパードライバーでもあり、老害事故が頻発し問題になっているこのご時世に、私にとって「いつか」の可能性は最も無いものだった。それなのに、手放さない理由には「また取得するのは大変」「お金がかかっている」「身分証明として最適」等々で、現実味はあまり無い。やはりペーパーの同い年の友人に聞いてみたが、皆、もう一回くらいは更新したいと言う。更新手続きはそう大変では無いが、熟慮の末に私は更新するのを止めた。
片付けするのは物だけでは無い、とつくづく思う。物を手放さない理由は良くも悪くも「拘り」という精神的なモノに他ならない。免許を手放した途端に気持ちがとても軽くなった。爽やかでさえあった。それは手放したものの意味の大きさ故に違いない。
2016年元旦は一人のんびり、一杯やりながら、今年のことを考える。より一層、片付けに邁進したいところだ。運転免許のことで学習した「片付けするものは物では無い」という確信は、仕事にも当てはまる。今やっているのは本当にやりたい事だけか?義理に縛られていないか?そう考えると手放すモノが明らかに見えてくる。人が介在しているだけに難しいが、何とか一歩進んで身軽になりたいものだ。
2日は昨年と同様、帰省して特養から母を連れ出し、実家で家族で新年会。生後4ヶ月の又甥が皆の笑いを誘う。母も自分のひ孫とは認識出来ないが、「いい子だ、いい子だ」とニコニコしながら抱っこすることが出来た。母の病状は進んでいるので、長いこと同じ所に居られなくて「帰りたい」と言うのが早くなった。帰る家はここしか無いのにと思うが、気持ちを荒立てては可哀そうなので、妹二人と特養まで送りとどける。
そして東京に戻り、その足で東海道新幹線に乗り、名古屋経由で伊勢神宮参拝。これも年中行事になった。先導者がいるので、正しい参拝が出来る。まず月讀宮より参拝、内宮には8時頃到着。沢山の参拝客で溢れんばかりだが、あまり滞ることなく列は粛々と進む。今年は殊に清々しく素晴らしいお参りであった。
参拝後は同行者の御縁で、伊勢志摩の温暖な静かな湾を臨む割烹旅館「橘」で牡蠣づくしの美味しいお料理を頂く。鳥羽まで送ってもらい、近鉄、新幹線で帰京。一見、慌ただしい行程だが、とてもゆったり過ごした気分だった。あたり前だが、結局、大事なのは精神の持ちようということなのか。今年は一年こうありたいものだ。
まったくもって、生来のオプティミストではある。
このところ姪や甥が年頃ともあり、結婚、出産が続いていて、2015年も又甥誕生という嬉しい出来事があった。愛くるしく笑う赤ちゃんを抱っこしながら、この子たちの将来が幸福であるようにと願わずにはいられない。
さて、我が命題である片付けだが、2015年はあまり進まなかった。だが、一つ大きな決心をして処分したモノがあり、それだけで今回は満足しているところがある。それは運転免許を更新せずに手放したことだ。元より筋金入りのペーパードライバーでもあり、老害事故が頻発し問題になっているこのご時世に、私にとって「いつか」の可能性は最も無いものだった。それなのに、手放さない理由には「また取得するのは大変」「お金がかかっている」「身分証明として最適」等々で、現実味はあまり無い。やはりペーパーの同い年の友人に聞いてみたが、皆、もう一回くらいは更新したいと言う。更新手続きはそう大変では無いが、熟慮の末に私は更新するのを止めた。
片付けするのは物だけでは無い、とつくづく思う。物を手放さない理由は良くも悪くも「拘り」という精神的なモノに他ならない。免許を手放した途端に気持ちがとても軽くなった。爽やかでさえあった。それは手放したものの意味の大きさ故に違いない。
2016年元旦は一人のんびり、一杯やりながら、今年のことを考える。より一層、片付けに邁進したいところだ。運転免許のことで学習した「片付けするものは物では無い」という確信は、仕事にも当てはまる。今やっているのは本当にやりたい事だけか?義理に縛られていないか?そう考えると手放すモノが明らかに見えてくる。人が介在しているだけに難しいが、何とか一歩進んで身軽になりたいものだ。
2日は昨年と同様、帰省して特養から母を連れ出し、実家で家族で新年会。生後4ヶ月の又甥が皆の笑いを誘う。母も自分のひ孫とは認識出来ないが、「いい子だ、いい子だ」とニコニコしながら抱っこすることが出来た。母の病状は進んでいるので、長いこと同じ所に居られなくて「帰りたい」と言うのが早くなった。帰る家はここしか無いのにと思うが、気持ちを荒立てては可哀そうなので、妹二人と特養まで送りとどける。
そして東京に戻り、その足で東海道新幹線に乗り、名古屋経由で伊勢神宮参拝。これも年中行事になった。先導者がいるので、正しい参拝が出来る。まず月讀宮より参拝、内宮には8時頃到着。沢山の参拝客で溢れんばかりだが、あまり滞ることなく列は粛々と進む。今年は殊に清々しく素晴らしいお参りであった。
参拝後は同行者の御縁で、伊勢志摩の温暖な静かな湾を臨む割烹旅館「橘」で牡蠣づくしの美味しいお料理を頂く。鳥羽まで送ってもらい、近鉄、新幹線で帰京。一見、慌ただしい行程だが、とてもゆったり過ごした気分だった。あたり前だが、結局、大事なのは精神の持ちようということなのか。今年は一年こうありたいものだ。
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