2015年5月26日

65 合同読書会 漱石を読む / 『虞美人草』

今回は何と私に発表の番が回ってきた。『虞美人草』は大変な長編で、漱石も自他ともに認める失敗作とあって、ずっと気が重かった。でも、とにかく読まなくてはならない。自分では選ばないだろう本を読むのもこういった読書会の妙味であるから、と諦めた。この一ヶ月は寸暇を惜しんで『虞美人草』に向き合ってきたが、その寸暇さえままならない忙しさで、図太い私もさすがに泣きたい気持ちだった。私の多忙を御存じの津田先生は気遣って下さり、「適当に」とかおっしゃるが、そんな言葉が実は先生のボキャブラリーには無く、適当になんてやれるはずがない。勿論、先生の為に発表する訳ではないが、ちゃんとやらないと、まじめにやってきている他の参加者にも申し訳ない。

でも、とうとうこの日はやって来てしまった。
結果は、一昨日の発表の一部をここに載せることで、報告としたい。

<テキスト>
 『虞美人草』夏目漱石 岩波文庫 (1939・1・10初版)

<作品概要>
 漱石が職業作家となって初めての作品
 「朝日新聞」掲載(明治40年6月23日~10月29日) 
 題名の「虞美人草」はひなげしの別名

<文体、構成>
会話部分は落語調だったりして読み易いが、地の文は比喩が多く、美文調、擬古文でかなり読み難い。しかし、美文調に慣れてくると、日本語独特の心地よさを感じ、イメージとして映像が浮かんでくる。読んでいてイメージが立ち上るのは優れた小説であると言えるのではないだろうか。
また、五感に訴える表現が豊かである。色、匂い、音…が鮮やかに浮かび上がる。(モチーフとしての、金時計、紫色、ガーネット、着物の色柄、ヘリオトロープ、琴の音、虞美人草…等々)
登場人物が多彩でキャラクターが描き分けられていて、プロットも豊かで盛り上げる仕掛けが随所にあり、読んでいて楽しめる。
会話調で始まり、次の章では趣を変えて美文調で格調高く語る、という繰り返しかと見せて、後半は畳み込むように芝居がかったように展開する鮮やかな手法。かの大文豪に失礼だが、流石にうまいと思わせるところがある。
全体として群像劇としてもとれるし、読みようで主役が変わる多様な構成である。

<映像化>
これまでに3度映画化され、4度テレビドラマ化されている。

それ以外にも、1981年に向田邦子脚本、松田優作主演(甲野役)(藤尾役は桃井かおり)の作品が制作される予定だったが、向田邦子が飛行機事故で急逝したため、実現には至らなかった。演出の久世光彦によると、向田は亡くなった時に岩波文庫の『虞美人草』を携えていたはずだと言う。『虞美人草』は向田がやりたがった作品で、帰国したら直ちにこの作品の打合せをすることになっていたのだそうだ。そういう意味では『虞美人草』は向田邦子の最後の未完の作品とも言える。この作品のドラマ化の為に向田邦子と会ったのがきっかけとなり、松田優作がその後、森田芳光監督『それから』に出演し、俳優としてそれ以前にはなかった新しい松田優作像を作ったのは記憶にも新しい。

このように、『虞美人草』の映像化は結構多い。映像化では圧倒的に『坊ちゃん』『こゝろ』が多いが、それに次ぐ回数である。作品としては上の扱いの『吾輩は猫である』『三四郎』『それから』『門』などの映像化より多いということは、多くの演出家や脚本家にとって『虞美人草』は魅力ある作品であるということである。それはこの作品のプロットの豊かさや登場人物が多彩であることが要因となっているのではないだろうか。映像化したそれぞれの作品の主役が違うのも面白い。視点を変えると主役が変わるのは登場人物が多彩でキャラクターが豊かに描き分けられているということではないだろうか。

<作品評価>
正宗白鳥の批判は有名だが、その評価自体は総じて「錦繍の文体で飾った大がかりな失敗作」(三好行雄)といった言葉に要約され、おおむね酷評だ。だが珍しいことにこの作品を、『「大人」になること―漱石の場合』という文の中で枚数を割いて評価しているのは内田樹である。
「宗近くんはいわば帝大卒の「坊ちゃん」である」として、宗近と坊ちゃんの二人の青年こそ、漱石が明治の青年に文学的虚構を通じて示そうとした理想の青年像に他ならない、と述べているのだ。内田は『虞美人草』を小野、甲野、宗近の3人の青年の成長物語としてとらえている。明治という時代は人も物も旧弊をばっさり切ってしまったので、青年たちにはロールモデルがいなかった。「先生」がいなかった。この作品に続いて、畢竟、先生の存在が重きを成す『三四郎』『こゝろ』を書かなければならなかったのだ、というのである。私はこの内田説に大変共感した。

<まとめ>
結果として、私はこの作品を面白く読んだ。発表担当という理由で全編をしっかりと読んだのは良かったと思う。
漱石生前中も死後も専門家の評価が悪い中で、この小説を大いに楽しんだのは一般読者(素人)だというが、さしずめ素人の私が楽しんだのは当然と言えば当然だ。
津田先生曰く、漱石の作品は大衆文学にして純文学、広く読まれる要因であるという。そういう意味で、大衆文学に飽き足らない人が、ストーリーの展開に大衆文学の面白さを含みながらも格調高く運ぶ漱石の世界を楽しむのは自明であろう。
職業作家として初めて書く『虞美人草』に漱石が沢山の工夫を凝らしたのは想像に難くない。
『虞美人草』は漱石の失敗作ではなく、野心作というべきではないだろうか。

今現在、朝日新聞に漱石の小説が復刻連載中であり、話題になっている。そして、来年2016年は漱石没後100年だというが、改めて漱石が注目される流れはあるようだ。

<参考文献>
『夏目漱石の全小説を読む』 國文学編集部  學燈社 2007・9・25
『漱石を読む』 柄谷行人、小森陽一、他  岩波書店 1994・7・15
『「おじさん」的思考』 内田樹  角川文庫 2011・7・25
『漱石を語る2』 小森陽一、石原千秋  翰林書房 1998・12.5
『漱石論 21世紀を生き抜くために』 小森陽一  岩波書店 2010・5・27
『再読 日本近代文学』 中村真一郎  集英社
『漱石と三人の読者』 石原千秋 講談社 2004・10・20
『触れもせで』 久世光彦  講談社 1992・9・28 


以上のような発表だったが、慌ただしくやっていると、肝心なことを忘れるものだ。この作品に好意を寄せている作家にもう一人、村上春樹がいたのだ。
村上春樹は河合隼雄との対談の中で『虞美人草』とか『坑夫』が好きだと言っている。それを反映したのが『海辺のカフカ』だ。カフカ少年と大島さん(蜷川演出の舞台では、長谷川博己がやっていたっけ)が、『虞美人草』『坑夫』に関して、その魅力を話すシーンを入れているのだ。

皆がつまらない、失敗作だという物を結構楽しんだ私は何なのだと思うが、向田邦子、内田樹、村上春樹が認めているのだ。それで良いではないかと、自己満足している。

ところで、今回はさすがに半日だけ図書館に籠った。久しぶりの図書館。やっぱり図書館はいいなあ。もっともっと時間を作らなくっちゃ!


2015年5月18日

64 熊本へ鎮魂の旅

5月16日は女優中島葵の命日、今年は25回忌である。もうあれから24年も経ったのかと、昨日のことのようにあの日を思い出す。泊まり込みで看病を続けていた葵さんのパートーナーの演出家芥正彦から「もう今日一日もたないだろう」という電話を受けて、朝一番のバスに飛び乗って安曇野に向かった。もうすぐ命を終えようとしている人の前で山国の春の新緑はあまりにも輝いていた。
先日久しぶりに葵さんの夢をみた。考えてみると25回忌にあたるし、ふと墓参りに行こうかと思いつく。と、そこに芥正彦からの電話があり同じように夢を見て墓参りを思いたったのだと言う。これは葵さんが呼んでいるに違いない。
中島葵というと、森雅之の娘にして有島武郎の孫である系譜で語られることが多いが、母方の家は唄にも歌われ全国で5本の指に入ると言われたあの東雲楼である。葵さんの生まれた時は遊郭の時代ではなくなっていたが、丸窓の大きな家と立派な築山のある広い庭で近所の子どもたちと遊んでいたそうだ。乳母日傘で育った葵さんの母親が一家の為に意を決して宝塚の娘役になり、葵さんの祖父、伯母二人のために仕送りしては時々顔を見せに熊本に帰っていたが、家族は一緒にいなくてはいけないと当時の宝塚の社長に諭されて家族を神戸に呼び寄せたと聞いている。葵さんは10才くらいまではこの遊郭跡に暮らしていたのだ。一家が神戸に移り住んでからしばらくは廃屋として残っていたが、その後は長い間さら地であったらしい。あまりにも広くて買い手がつかなかったそうだ。今回、その二本木遊郭の東雲楼の跡地に行ってみると熊本朝日放送が建っていた。
昔この辺りを葵さんも歩いたのだねと、芥と歩く。当時の建物ではないだろうが、祖父や伯母たちと行っていたという「東庵」という蕎麦屋は今もあった。そぞろ歩きの後に白川の橋から振り返ると二本木遊郭跡は二本の川に挟まれた三角地帯で独特の地形だ。
中島一家が時々出かけたという島原湾にも足を延ばしてみた。晴れた日は向うに普賢岳が見えるというが、曇りがちで雨粒もポツリポツリの天気である。「葵は雨女だったからなあ、葵の涙さ」と、芥らしい。
中島家のお墓は町の中心地に近い花岡山の中復にあり、熊本駅あたりの街並みが見下ろせる絶好の場所だ。新幹線の駅舎など、何年か前に訪れた時には無かった現代的な建物がこれからもどんどん増え、街並は変わることだろう。葵さんの好きだった向日葵とお母さんが好きだった紫陽花の花をあげて、鎮魂の旅を終えた。

葵さんもその昔お祖父ちゃんに連れて行ってもらい、買物の後にソフトクリームを食べさせてもらったという「鶴屋デパート」は地元の老舗としてまだ健在で、その前からは高台にそびえている熊本城が見える。石畳の通りには路面電車も走っている。熊本は現代的な物と古い物が調和していて文化度が高い町と見える。
今時はゆるきゃらとか言ってご当地キャラクターがどこへ行っても目につき、カンベンしてくれと思うが、熊本は何と言っても一番人気の「くまもん」がいるので、そこかしこにあふれていたらどうしようかと思ったが、それほどでも無いのでほっとした。大人の町なんだなあ。この間生まれた又姪の為にぬいぐるみを買ってしまったけれど…








2015年5月12日

63 さようなら乾之助先生

宝生流能楽師の近藤乾之助先生が亡くなり、能楽界からまたお一人、名手が失われた。
通夜に参列したが、その死を悼む人で会場は溢れていた。能楽界の方も沢山みえていたが、列の前後の方々の会話から察するにご近所の方、一般の方も沢山集まっていた。乾之助先生のあたたかで気さくなお人柄であろう。
行きがかり上引き受けざるを得なくて能に関わっていた私が、能をもっと深く知りたいと思ったのは乾之助先生の舞台を拝見したのがきっかけであった。私と同様の人を何人も知っているが、そのくらい人を惹きつけてやまない舞台の数々だった。何よりも姿の美しさ、品の良さがあった。忘れられない舞台がいくつもある。
「鞍馬天狗」前場での牛若とのやり取りに男色的なひそかな色っぽさを漂わせ、ラストでは大天狗の大きさ、スピード感を見せて下さり、その対比には驚かされた。橋掛かりを軽やかに走り去る小柄な乾之助先生がとても大きく見え、もの凄い速さで(大天狗のスピードは飛行機と同じくらいと言われる)疾走していたのだ!
「鷺」のお姿も目に焼き付いている。「鷺」を演じるのは子どもか老人と言われるが、直面で橋掛かりにすっと立たれた姿は鷺そのもので、そこに居るのは一羽の白い鳥でしかなかった。
「盛久」は特筆すべきだろう。乾之助先生の「盛久」を観て、人生観が変わったと言う人を知っているが、そのくらいこれも乾之助先生らしい曲目と言える。この曲のテーマは「熱心な信仰心が命を救う」というものだが、これも直面の能で、元々のきりりとしたお顔立ちもあり、無心に祈る姿の崇高さが舞台の上の凛とした姿から伝わってくる。「盛久」は私は観客としても拝見しているが、何年か前に富山県高岡市での仕事でご一緒させて頂いたこともあった。
信仰心で救われると言えば、乾之助先生の「江口」の謡がお経より有難く、涙がこぼれたことがある。私が所属している伝統芸術振興会の前会長の南部峯希の偲ぶ会でのことだ。仮の宿であるこの世に心を留めるな、という「思へば仮の宿~」の詞章がしみじみと胸にしみる。乾之助先生のことが大好きだった南部にもきっと届いたに違いない。
鎮魂の芸能とも言われる能に長い間関わってこられた乾之助先生である。ご本人の魂が救われないはずは無いだろう。心からご冥福をお祈りしたい。









2015年5月5日

62 革手袋のクリーニング代 / 冬物整理-2

先日整理した冬物を保管クリーニングに出し、保管出来ない物は近所のクリーニング屋に出しに行く。これで冬物整理は終り。昨年夏物を整理した時にも思ったことだが、残した物で足りるかどうかは来シーズンに判明することだ。いくら厳選したとは言え、飽きっぽい私がこれで足りるかどうか、数の問題ではないことはよく分かっているつもりだ。
ところで、転居してから初めて冬物を出すことになった近所のクリーニング屋の店員さんだが、革手袋のクリーニング代で大いに悩み、特殊クリーニングなので外注だからと値段表をにらんでいる。同僚とも熱心に話し合う。単純にそこに書いてある値段じゃないの?と思うが、二人の出した結論が×2倍の値段の4,000円なり。二人の意見は、札を付ける安全ピン1個につき1件という認識なので、右手と左手は別勘定なのだと言う。革は結構高いんですよね、自分も以前にこのくらい払いましたよとのたまう。うーん、高いのは知っているけどそんなにするの?悩むところだが、出さなくてはいけないので、黒と白の内、黒だけを預けてくる。白は汚れ易いし役目が終わった感もするので、処分することにした。
私があっさり引き下がったのには理由がある。持っていった物を持ち帰るのが面倒ということもあったが、実はこのクリーニング屋さんには以前、ブラウスをワンピースと間違えて多く頂いてしまったので、と返金してもらった前例があるので、その誠実さに期待をかけたのである。別の見方をすると、よく間違えるのだなあ、とも言えるのだが…
保管クリーニングに出しに行った白洋舎で念の為聞いてみたら、2,000円だそうだ。白洋舎にしてこれだから、明らかにお二人の店員さんの間違いだろう。それにしても思い込みとは恐ろしい。手袋を片手だけクリーニングに出す人がいるんですか?という私のつっこみにも動じることがなかった。その時のことを思い出すと何だか可笑しくて、今は取りに行った時の結果が楽しみで仕方ない。