読書会「れれれの会」の今回のテーマは「風の良寛」で、発表者はNさんだった。Nさんもいつも素晴らしい発表をしている人だ。彼女は、自分の感性で作品選びをし、世評に影響されない考察をし、受けを狙ったり奇をてらわないのでとても好ましい。それなので、発表の言葉もこちらにも素直に入ってくる。見習わなくてはいけない姿勢だ。
「風の良寛」作者の中野孝次はベストセラーになった「清貧の思想」の作者でもあり、文字通り清らかで貧しい生き方を称揚する人なので、もっぱらその視点で良寛像を分析している。まさに良寛はそういう生き方をしたので、良寛を書くことによって、飽食と欲望が渦巻く現代社会に批判を向けたものと思われる。
良寛が起居した五合庵という小さな庵にある道具は、鍋とすり鉢と茶碗、机が一台ありその上には硯と筆、片隅にはセンベイ布団がきちんと畳んである。本は「荘子」一冊のみ。何とわびしいことだ。越後の寒い冬をよくも死なずに越したものだと思う。良寛には、春の訪れを喜ぶ詞がいくつもあり、それは本当にのびやかで輝きに満ちて気持ちが良い。夏の暑さを耐えた後に感じる秋の涼しさの喜びも格別であっただろう。モノの少なさは逆に感覚に多くをもたらしてくれるのだ。このモノの無さ!これこそ私の理想!と言いたいところだが、さすがにここまでは出来ない。目指すところでもない。
世捨て人としての僧侶文人には良寛の他にも西行や一休のような第一級の文学者がいて、それぞれに魅力的だが、私にとって絶対に外せないのは種田山頭火だ。出家しても立派な行動など出来ず、これでもかこれでもかと失敗する。酒に負けてでろでろになってしまう。その駄目さから生み出される血を吐くような句に、どうしても私は惹かれてしまうのだ。ぼろぼろの黒衣を身にまとった乞食僧としての姿は似ているが、山頭火に比べると良寛は立派な人に見えてくる。
確かに良寛も何もかも捨てた人だ。寺の住職でもなく、経も読まないし、人の葬式もしてやらないので、僧であって僧ではない。見事な漢詩を作り歌をよむが漢学者でもなく歌人でもない。「万葉集」を読むが国学者ではない。雅な書を書くけれど書家ではない。だが、第一級の知識人、教養人として尊敬され慕われ、子どもと遊ぶのが好きな純粋無垢な人柄でそれが文にも反映していて、日本人に最も愛されている文人の一人である。多くの文学者が取り上げ論述しているくらい人気のある詩歌人でもある。子どもとの毬つきのイメージが強く、天真素朴な味あいだけが良寛の特徴だと思ってきたが、どうやらそれだけでこうまで人々に愛されるのではないのだというのが今回は分かったような気がする。
さて私はというと、肝心の片付けも滞っているが、五合庵のイメージを胸に刻んで、やる気を高めることにしよう。