2014年7月30日
29 能楽座公演
私の仕事の内でその量と責任の比重が大きものに、能楽座の制作がある。
能楽座は各流各派の当代一流の能楽師によって流派の枠を越えて結成され、人間国宝が何人も所属する稀有な団体である。能という伝統芸術の真の継承と創造をめざし、日本の各地で、特に普段、能や狂言を鑑賞する機会の少ない地方で質の高い能と狂言を公演することに力を注いでいる。
そういった地方での活動の他に、年一度の自主公演も行っている。それが、来月8月31日に国立能楽堂であるのだが、そのDM発送を行った。1200枚、アルバイト4人で丸一日かかる量だ。
この公演は一般の奏演形式に囚われないプログラムを組むので、どうしてもそのこだわりの為にチラシの完成が遅れる。待ちくたびれたお客様から問い合わせもあり、制作をする身にとっては毎年やきもきさせられるが、活動の目指すところを考えると急かしたりすることは出来ない。
「一流の演者に通の客」といった構造で、私が関わる少し前まではこのDM会員だけで能楽堂のキャパはすぐ埋まり、キャンセル待ちが出るような公演であったらしい。最近はそうもいかず広報にも力を入れなくてはいけないのだが、それにしても率の良いDMである。
先日はベネッセ問題など個人情報流出が問題になったが、個人情報としての質を考えるとこの名簿は大変な物なので、軽々しく扱えない物である。勿論、どんな名簿も慎重に扱われるべきだが。
いずれにしても、このように案内が届くのを心待ちされるような公演を制作したいものである。
2014年7月23日
2014年7月16日
27 片付けなんて、ほめられたものじゃない?!
ブログを始めることで、いわば「片付け宣言」をした私に対する友人たちの反応が面白い。皆大人だから露骨には言わないが、呆れていることだけは明らかだ。どうせ出来ないであろうという冷ややかさを感じる時もある。世の中は「断捨離」などとか、雑誌、テレビでは常に取り上げているほどだから、ある意味片付けブームだと思っていたので、私の周りの人達がこんなに片付けに対して拒否反応を示すのが不思議なくらいである。
色々と言われたが、極めつけは、友人Hの言葉である。「そんなことをしたら、あなたが死んでしまうんじゃないかと思って…」 死を予感した人間が、身辺整理をする話はよくあることではあるが、そこまで飛躍するか!という感じである。私は死にません! いつか死ぬ時まで、快適に楽しく生きるために身軽になるのです。さっぱりするために垢を落とすのです。
舞台女優、歌手であるIは、普段は着なくなった服が時代考証や役柄によって役立つことがあるから、衣服類は捨てられないと。靴もアクセサリーもしかり。翻訳家でもあるから本も山のようにある。彼女はある時、片付けはもうしない!と決心し、宣言をした。彼女も独身なので何かあった時に他人に迷惑をかけたくないという思いはあり、その課題に関しては「片付けにかかるお金を残す」という結論を出して、信頼する若者に託しクリアした。調査をしたうえで、200万もあれば良いんでしょうと。これでもう片付けのことなんて考えないんだと言うのを聞いて、それもありかなあと私もちょっと傾いた。しかし、私の「トランクひとつ」願望は、結構年季が入っているので、結局そちらの考えに行くことは無かった。
40代の友人Kさんは「片付けなんて無理、無理!全てお気に入りの物に囲まれているので、何一つ捨てられません!」と言う。これは私もそうだったので、よく分かる。40代ともなると経済的にも余裕が出来、目も肥えて、良い物も身の回りに増える年代だから、そう言うのも無理もないだろう。こだわって求めた物に囲まれた生活は幸福だ。まだ若い時は充分に楽しめば良いと思う。
「どう?トランクひとつに出来た?」と友人Sは問う。さすがにこの短い間には無理だ。それにガラクタとは言え、これらの物は何十年と生きてきた証しでもあるので、ポイポイと行かない時もあるのだ。私にとって片付けとは、嫌いな物を捨てることでは無く、好きな物を残すことなので、無理をせず楽しみながらやろうと思う。
そうこうしている内に開かずのダンボールを一つ見つけた。まったく着ないであろう洋服だったので早速処分する。気がついた時にすぐやること、先延ばしにしないことも大切だ。
色々と言われたが、極めつけは、友人Hの言葉である。「そんなことをしたら、あなたが死んでしまうんじゃないかと思って…」 死を予感した人間が、身辺整理をする話はよくあることではあるが、そこまで飛躍するか!という感じである。私は死にません! いつか死ぬ時まで、快適に楽しく生きるために身軽になるのです。さっぱりするために垢を落とすのです。
舞台女優、歌手であるIは、普段は着なくなった服が時代考証や役柄によって役立つことがあるから、衣服類は捨てられないと。靴もアクセサリーもしかり。翻訳家でもあるから本も山のようにある。彼女はある時、片付けはもうしない!と決心し、宣言をした。彼女も独身なので何かあった時に他人に迷惑をかけたくないという思いはあり、その課題に関しては「片付けにかかるお金を残す」という結論を出して、信頼する若者に託しクリアした。調査をしたうえで、200万もあれば良いんでしょうと。これでもう片付けのことなんて考えないんだと言うのを聞いて、それもありかなあと私もちょっと傾いた。しかし、私の「トランクひとつ」願望は、結構年季が入っているので、結局そちらの考えに行くことは無かった。
40代の友人Kさんは「片付けなんて無理、無理!全てお気に入りの物に囲まれているので、何一つ捨てられません!」と言う。これは私もそうだったので、よく分かる。40代ともなると経済的にも余裕が出来、目も肥えて、良い物も身の回りに増える年代だから、そう言うのも無理もないだろう。こだわって求めた物に囲まれた生活は幸福だ。まだ若い時は充分に楽しめば良いと思う。
「どう?トランクひとつに出来た?」と友人Sは問う。さすがにこの短い間には無理だ。それにガラクタとは言え、これらの物は何十年と生きてきた証しでもあるので、ポイポイと行かない時もあるのだ。私にとって片付けとは、嫌いな物を捨てることでは無く、好きな物を残すことなので、無理をせず楽しみながらやろうと思う。
そうこうしている内に開かずのダンボールを一つ見つけた。まったく着ないであろう洋服だったので早速処分する。気がついた時にすぐやること、先延ばしにしないことも大切だ。
2014年7月6日
26 読書会 / およすく会
今関わっている二つの読書会のもう一つの会は「およすく会」と言う。田中順子先生を講師として「源氏物語」を原文で味わおうという会である。会の名称は、桐壷の巻の【きよらにおよすけたまへれば】から。古語では「おゆ(老ゆ)=成長する」と「源氏物語」から知り、歳を重ねることは成長することなのだと、原文の古語に事寄せて名付けた。
読書会は今年の春に13年目に入り、毎月第一水曜日、文京シビック内の講義室で、田中先生の解説本をテキストに2時間半みっちり読み込んでいる。現代語には失われてしまった日本語の深い味わい、美しさを求めて、細部にこだわり、ゆっくりじっくり第10巻「賢木」の卷まで読み進んで来た。通常の読書会に比べたら遅い歩みであるが、豊かで奥深い「源氏物語」の世界を読み飛ばしてはもったいないという気持ちでやって来たのだ。全54帖、まだまだ先は長いが、せめて15巻「蓬生」までは行きたいものだと思っている。
参加者達の事情から、読書会の開催が夜から昼に変更になって以来、現役の身では平日の昼間に仕事を抜け出すのは容易では無く、発起人でありながら欠席がちで気が引けていたが、「賢木」もいよいよ終わりというので、先日は時間を作って参加した。
読めば読むほど、紫式部は天才だと思う。あれだけの長編なので登場人物は多いが、一人として同じ人物造形が無くキャラクターが見事に描き分けられているし、読者を次から次へと引き込んでいく小説としての構成も素晴らしい。また、多くの国の言葉に翻訳されたこの物語は、民族、国家を超えて世界中に知られており、紫式部は世界の偉人の一人と認められている。
しかし、こんなに有名な小説であるにも拘らず、これほど誤解されている小説もないだろう。私自身もそうだったが、プレイボーイの女遍歴の話なんて嫌いだ、と思っている人は多いと思う。それは、現代作家の翻訳の影響に他ならない。まるで性愛小説のような現代語訳が多いが、それはまったく原作を理解していない証拠である。現代語訳を読んで、「源氏物語」をこの様なものであると誤解した読者は、よほどのきっかけが無いと再び「源氏物語」を読もうとしないのではないだろうか。「源氏物語」で描かれているのは「心」であって、性描写など無いのだ。現代語訳では決して伝わらない「源氏物語」の魅力は、原文を読むことで初めて分かるのである。
今でこそこんなことを言う私だが、原文を読むまでは、その深く限りなく豊かな世界を知らなかった。こういう読み方を教えて下さった田中順子先生には、心から感謝するばかりである。
「源氏物語」を知ると知らないとでは、人生そのものの味わいが違っていたであろう。
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