2014年5月26日

21 れれれの会 / 漱石を読む

読書会「れれれの会」のメンバーも発表のテーマもユニークで、文学からかけ離れていることが多く、講師である津田先生も「この会は何が出てくるか分からない」と呆れるほどである。だからという訳では無いとは思うが、先生の他の読書会と合同で隔月に夏目漱石を読むことになった。
「猫」とか「坊っちゃん」というおなじみの物も改めて読み解こうということだが、あまり知られていない評論も読んでみようと、先生の計算では4年かかるそうだ。テキストは岩波文庫。初回である今回は先生の講義という形で「文芸論集」を読んだ。たっぷり二時間、久しぶりに講義を聞いた!という感じだった。ゼミ形式だから、その内に発表の順番が回ってくる。これが結構の緊張感で、この齢になると新鮮ではある。
漱石は大体の人が中学、高校、大学と十代の頃にまず一度は読む作家ではないだろうか。私の場合、40才前後に再び、それこそ津田先生のゼミで一年を通して漱石を読んだが、大変新鮮で若い頃とは違う感動を覚えたのが忘れられない。その少し前に丁度、森田芳光監督の「それから」を観て、原作を改めて読んだばかりでもあり、映画の素晴らしさも相まって漱石に再び注目していたことが下地にはあった。森田芳光は私と同年だ。30代後半にふと漱石の世界に立ち戻りたいと思うのは、それだけ漱石が時代を超えた偉大な作家である証拠でもある。読む年齢によって感じるところが違うだろし、一生の内でもう一回読む機会があっても良いかなと思っていたので、年齢的にもこの機会なのだろうと思う。こんなチャンスはめったにあるものでは無いので、しっかり味わいたい。

ところで、昨日は何があったのだろう。明大の前にズラッと警察車両が並んでいて、警官の姿もちらほら。こんな光景は何十年ぶりだろうか。昔と違うのは、大学の建物がやたらときれいで書きなぐったタテカンも無い。行き交う学生達の服装も清潔でおしゃれで、物々しさには無関心で行き過ぎる。今更ながら、隔世の感である。

漱石

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2014年5月17日

20 トランクへ入れる物-その2 / 化粧品

この4月から、一ヶ月一アイテムくらいの目標で整理を始めたが、今月は化粧品にしようと思う。若い頃と違い、洒落っ気も無くなり随分とシンプルになってきているので、化粧品は片付け易い物の一つだ。
三年前、駒場の一軒家を出る時に、全ての物の大整理をした。口紅もマニキュアもその時に何十本も捨てたのに、まだそれなりに残っていた。若い頃は、服装やその日の気分に合わせてまめに塗り変えていたものだが、今やその余裕が無い。今はマニキュアは爪を保護するのが目的みたいになっているので、透明な物と薄いピンクがあれば充分だ。口紅はピンク系とベージュ系の薄いのと濃いのとを小さなパレットに入れておけば、組み合わせでそれなりに色は作れるから、ほとんど間に合うだろう。
そもそも、30代中頃からファンデーションはぬらないで、眉、アイラインを描き、口紅を塗るだけの化粧をしてきた。「化粧は老化を際立たせる」と、ある時気がついたからだ。周りを見れば見るほどそれを確信した。特にファンデーションの厚塗りはいけない。「ヒビ」が皺の存在を目立たせる。若い頃の流行を引きずったブルーやグリーンのアイシャドーも弱った目尻が強調される。それに肌を痛めそう。以来、ファンデーションをつけなくとも良い素肌作りを目指したが、この齢になると見た目でその効果のほどを云々するのは何とも難しい。そんな私も着物を着たりフォーマルな服装をする時は、パウダーファンデーションをぬり頬紅をはたいたりするが、その時は肌が重いような気がする。すっぴん肌に風を受けるのは気持ち良いし、汗もしっかり拭け、思い切り笑える。
これからもまだハレの場所はあるだろうから、その為の化粧品は2、3残しておくとして、普段はペンシルと口紅以外は要らない。小さなポーチで充分だ。化粧品全部入れるにしてもそんなに大きなポーチは要らない。
化粧水は手作りの物。漢方医に教えてもらった物を自分なりにカスタマイズした。材料は全て食べても安全な物なので何よりも安心だし、シワ、シミにも効果があるような気がする。歳をとると出来る小さなイボも消えたと妹も言っている。基本はこの化粧水一本だけだが、乾燥している時や、たまにファンデーションを塗る時の下地の為に乳液も一つだけ用意している。顔そり時にも使い、便利な一本だ。基礎化粧品はこの2本で充分。
香水はもう不要かと思うくらい最近はめったにつけないが、残っている物だけでもたまには気転換に使ってみようかと思う。終わったら、もう買い足さない。今までで一番使ったのが「シャネル№19」だ。マリリンモンローはセクシーさのイメージと共に№5をすっかり有名にしたが、№19は爽やかで清潔感がある匂いで好ましい。トップノートもラストノートも良く、私の体臭にも合っていたようだ。私が19才の時に発売され、誕生日が19日でもある私は数字のごろ合わせも気に入ってすっかり愛好者になった。「カボシャール」は30代後半くらいから使い始めただろうか。「強情ぱり」という意味の名前も気に入って、その名の通りキリッと強い感じがするので、№19では物足りない時や、気が張る打合せの前などには気合いを入れる為にそっとつけたりしたものだった。

風呂用品に関しては、これほどシンプルには出来ないだろうという自信がある。極端に言うと石鹸一つあればそれで良いのだ。泡たてネットでふんわりと泡をたてて、それで顔も身体も髪も洗う。この石鹸は、従妹が子どものアトピー性皮膚炎に悩み、研究して作ったハーブ石鹸だ。
髪も!?と驚く人もいるが、よく泡立てれば洗い心地にまったく問題ない。すすぐ時と乾かす時にキシキシするが、乾いてしまえば同じだ。多くの市販のシャンプーなどは滑らかにする為とか良い匂いをつける為に化学合成物質を使う訳だから、むしろ多少のきしみ感などには「身体に良い物を使っている」という満足感の方が勝るのだ。
タオルは要らない。手のひら洗いだ。手のひらで優しく優しく、自分の身体をこんなに労われるのは自分だけだ。身体の異変に気がつきやすいのも手のひら洗いの良いところである。世の中にはバスタブにゆっくり浸かるだけで石鹸を使わない人もいるくらいだ。いずれにしても、石鹸をつけたタオルやブラシでゴシゴシこするのは皮膚には良くないような気がする。ほんのたまに背中をこすりたいことがあり、その時は柔らかいブラシでそっと「痒い所に手が届く」ようにしている。
まとめて写真を撮ってみたが、この少なさが嬉しい。これに満足している自分にも満足だ。

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2014年5月7日

19 思いがけない母の一言 / 故郷の春

「私はどういう人間ですか」と母が問う。ふいをつかれて私は困惑し、平静さを装いながらも「名前は・・・・・といって」と母の名前を言った途端、「そんなことは分かっている!」とぴしゃり。アルツハイマーの症状がまた少し進んだ母の口からは、以前の母のボキャブラリーには無かった本質的な言葉が出る時があり、驚かされる。禅問答のようになる時がある。
それにしても「どういう人間か」と訊かれてまず名前を言うとは、野暮ったい答だったなあと我ながら残念である。それは母が理解するとかしないとかの問題では無い。どうせすぐ忘れるからどうでも良いということでもない。私だったら相手にどんな答えを期待するだろう。これは結構深い問いである。
この連休を利用して、叔母二人と妹二人とで母を老健から連れ出し、野辺山の山荘に泊まった。この山荘はお料理が美味しいので、地元の人も宴会などに使うことがある。摘みたての山菜の春の緑が目にも嬉しい。母も「美味しい、美味しい」と沢山食べてくれた。
部屋から八ヶ岳がよく見えて、今年は大雪だったせいか雪もまだ沢山残っている。山国の春は遅く、花は一斉に咲く。山桜、コブシ、レンギョウ、雪柳…カラマツの新芽も美しい。
「白樺 青空 白い雲 コブシ咲くあの丘 北国の春」の作詞者いではくは、同郷である。叔母の一人と同級生だ。あの歌は東北の春を歌ったとされるが、我が地元の人は「明神様のあのコブシを思い出して作ったものらしい」と、ありがちなモデル捜しをしたりしているから可笑しい。小学校近くの古い小さな神社のコブシの白い花は、春を告げるシンボルだった。
北国も山国も春の風景は同じであろう。日本の田舎の原風景がここにある。自然の中の生命の息吹を見て、あー今年も春が来た、あー今年も私は生きている、と感じながら、人は元気になるのだ。やっぱり春は良い。

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