他人が使った古い物はあまり好きでは無く、古本、古着、骨董には興味が無かった。特に雑器類は、実家の古い家の物置に積み上げられていていつでも手に入るし、見飽きていた。
ところが、何てことがない古いキズ入りの蕎麦猪口を買ってしまった。書家で詩人の山本萠さんの個展会場の片隅にそっと置かれた幾つかの猪口と小皿。萠さんもそろそろ終い支度を考えているらしく、少しずつ少しずつ大事に集めていた骨董の陶器などを個展の際に、最近はお客様に安価に譲っていたのだ。その一つにふと惹かれ、時代を聞くと「幕末」とのこと。つい最近読んだ本に、江戸時代から明治期に江戸に訪れた海外の人達が日本人をどう評してたか書かれていて、そのイメージとこの蕎麦猪口が直結してしまったのだ。
・日本人ほど愉快になりやすい人種はあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子どものように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである。
・この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。
・日本は貧しい。しかし、高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。(何とこれは、ポール・クロデールの言!)等々。
その頃の日本は、とても貧しかった時代だ。にもかかわらず、日本人はいつも笑いこけていて、日本人ほど愉快になりやすい人種はいないと、海外の人は口々に評しているのだ。落語の世界を見れば分かる。全くその通りじゃないか。
歌舞伎の魚屋宗五郎も泥酔しながら、お上に対する恨みつらみをぶつけるが、その科白の後半は庶民の暮らしの楽しさを訴え、笑って楽しく暮らしたことを大笑いする。ハハハハハハ、ハハハハハハ、ハハハハハハ、ワハハハハハハ、ああ面白かったね。と、名場面がある。
そんな陽気な江戸時代の日本人が何人この蕎麦猪口を手に取っただろうか。今に至る150年という歳月では大変な数になる。そういう時間や人に思いを馳せることが、骨董ならではの楽しみなのだろうと改めて思う。
そしてつくづく思うに、私自身、この自分のオプティミストぶりは、確実にこの陽気な日本人のDNAの賜物に違いない。ドーパミンを沢山出せる資質があるのだから、これからは江戸人のように毎日笑って暮らすのだ。