「やっぱりね。おばちゃんがそうい言うと思ってお母さんにも言ったんだけどね…」と、渋い顔の姪。ここは大人になって知らんぷりでもして、もらっておいてくれよとでも言いたそうだ。私だって親しくなければこんなことは言わない。
どのくらい前から「モノは要らない」と周りに言い続けているだろうか。私の性格や生活信条を知っている姪達は本当に良く分かっていて「おばちゃんは消え物が良いんだよね」と、美味しいお菓子や趣味のいい花をプレゼントしてくれる。私をよく知っている親しい友人も然りである。食べてしまえば物は残らないが、美味しかった記憶はいつまでも忘れられない思い出を残してくれたりするものだ。旅行のお土産も何も要らない。文字通り「土産話」が聞ければ、それが一番楽しい。それか、その土地のちょっとしたチョコレートでももらえれば充分嬉しい。だが、何十年つき合っても分かってくれない人もいる。「何も要らないからね~」という私の言葉を遠慮だと思っているのだろうか。何かと買ってきてくれるが、人にもらったモノは捨てにくく、残るモノは正直言って本当に困るのだ。
今は片づけという目標があるから尚更だが、以前から物をもらうのは苦手だった。なかなか自分の好みに合う物はないもので、「ヘタなモノは要らない」という、物に拘るあまりの我儘な結果でもあるのだ。自分の好みの物だけに囲まれて生活する幸せは何ものにも代えがたい。片付けが進行中の今は本当に大切な物が明確になってきた喜びが大きいが、好きな物ばかりに囲まれた中で最後の絞り込みに入る時にはやっぱり悩むだろうなあと正直思う。そういう意味でも新しい物はもう増やしたくないのだ。
最近もらって困ったモノの最たるものは、ある人の亡くなった母親の形見のアクセサリーだ。私が会ったこともない人のモノだが「あなたの好みに合うと思うし、捨てられないから、もらってくれると嬉しい」とのことだった。う~ん…。まあ、ここでは多くを語るのは止めよう。
逆に最近もらって嬉しかったのは、アコーディオニストの後藤ミホコさんのフィンランド土産の紅茶だ。今年の暑い夏にアイスティーとして重宝し、ほのかなレモンフレーバーが事務所の皆を癒してくれた。こういった配慮がヘタなモノより心に残るのだ。
もう少し涼しくなってきたら、妹のくれたベトナムコーヒーも楽しもう。コンデンスミルクでも用意して、あま~いベトナムコーヒーも久しぶりに良いかも。