2016年8月24日

113 究極の箒と出会う

「人生に3本もあれば充分」と言われるほど丈夫で、細部の美しさまで手間をかけた職人仕事のほどこされた棕櫚の箒を購入した。この棕櫚の箒は座敷箒として使い込んだら、玄関、庭箒と移しながら使い続ければ、一生物だということである。人生のラスト3コーナーを回り始めた私にとっては、この1本が生涯の物になることだろう。高田耕造商店の物で、ちょっとした電気掃除機が買える値段だ。この箒は、セットのちり取りを差し込んで裏返しして吊るすと、何かアフリカの楽器みたいで、箒に見えないのも気に入った。
実は昨年の引越しで20年使い込んだお気に入りの掃除機を処分し、箒、ハタキ(これはハンディモップだけれど)、雑巾の、昔ながらの掃除方法に変えてみた。どうしても掃除機が使いたくなったら買えばいいことだと思って一年過ぎたが、不自由さを感じることはなかった。むしろ、掃き出し、拭き清めのこの掃除方法の方が、掃除の後の気分の清々しさは勝るような気がする。現代でも、神社仏閣、能舞台など神聖な所は、掃き、拭き清められ、実に清々としている。

箒には神が宿るとされる民間信仰の言い伝えが、古今東西ある。箒は神聖な物であるため、それを跨いだり踏みつけるなどをすると罰が当たるとされる伝えが、各地にあるようだ。長居の客を帰すまじないとしても使われるのは、身近なエピソードだ。私も何回か試したことがある。(笑)
ヨーロッパにおいては、箒は魔法使いたちがそれに乗って飛行し、移動する道具であると信じられてきた。
掃除機に限らず電気機器には神も宿らないだろう。それに電灯が隅々までこうこうと照っていては、妖怪、魔物、妖精たちも居場所がないに違いない。こうして妖怪たちを追いやってしまった人々は潜在的な懐かしさのあまり、「大妖怪展」に長蛇の列を作るのだ。先日、別の催し物を観に行った江戸東京博物館での話である。「伊藤晴雨幽霊画展」も同時開催されていた。
涼しくなるための夏の風物詩、とばかり言えないであろう。







2016年8月14日

112 「狂うてはいけん!」 / 井上ひさしのメッセージ

知人の山川泉さんがプロデュースした「少年口伝隊一九四五」を江戸東京博物館ホールに観に行く。原作は井上ひさしで広島の原爆を扱った物だ。彼には原爆を扱った作品に「父と暮らせば」という名作がある。井上ひさしは好きな作家でもあり、大体の作品は読み、観ているが、この「少年口伝隊一九四五」は初めてであった。
被曝した3人の少年を通して戦争、原爆の悲惨さが語られるのだが、そこは井上作品なので、随所にユーモアが織り込まれる。家族、友達との別れ、友の病状に耐えられなくなった一人の少年が「頭が痛くてどうにかなってしまう!」と相談役の老人に訴えかける。老人は「哲学じい」と呼ばれて「人間とはどうあるべきか」を、常に本質的に問うて生きている人だ。彼が少年に向かって叫んだ言葉が「狂うてはいけん!」であった。
大きな声がまかり通る世の中、一夜にして変わってしまった価値観、目をつぶりたくなる惨状…
だが、そんな理不尽なもののために決して狂ってはいけないのだ、という井上の強いメッセージが伝わってくる。
先日の6日の広島、9日の長崎の慰霊祭のニュースも、リオ五輪の熱狂に隠れてしまっていた。その上、今日は朝から国民的アイドルと言われるグループの解散騒ぎで、そのリオ五輪さえも霞んでいた。
この国は一体どうなってしまったんだ…という思いを抱えながら観に出かけた芝居だが、「狂うてはいけん」は、まさに今の日本にも当てはまるのではないだろうか。
明日は、終戦記念日だ。





2016年8月4日

111 古いプログラム、チラシの処分

押し入れに開かずのダンボール箱が2つ程ある。何回かの引越しの間も開けないまま移動している。
その1つに手を付けた。自分の関わった舞台のチラシ、プログラムや観て感動した物のプログラムがギッシリ入っている物だ。こんなに「片づけ、片づけ…」と言っていながら、なかなか手がつけられないでいた。懐かしさのあまり読み込んでしまって、片づけにならないのではないかという懸念があったからだ。開けることになったきっかけは、先日永六輔さんが亡くなった折に昔関わったコンサートのチラシを捜す為だった。開けてしまった以上、この機会に片づけるしかない。
出てくる、出てくる…懐かしい舞台やコンサートのプログラムやチラシ。だが、自分でも驚くくらい、ノスタルジーに浸ることは無かった。「いつか、参考の為に開くかも」と思っていた「いつか」は今まで無かった。それはこれからも無いということだ。どうしても、という時には図書館や演劇博物館がある。
そして、大事なこと、感動したことはプログラムを開くまでもなく私の血肉となっており、いつでも鮮やかに思い出せるということにも気がついた。現に、生涯で一番と言えるくらい感動したピーター・ブルックの「夏の夜の物語」はチラシもプログラムも残っていないが、何十年前の舞台でありながら、昨日のことのように色鮮やかに思い出すことが出来る。よすがのモノは要らないのだ。
結局、私は自分の価値をプログラムやチラシの量で確認したかったのかもしれない。私は今までこんなに沢山の仕事をし、あらゆる方面に幅広く活動して、多くの人と知り合った。私はこんなにも舞台や映画を観る好奇心旺盛な人間なのだ、と。それを誰かに披露する訳ではないけれど、自己満足のよすがにしていたような気がする。
きれいさっぱり捨ててみると、自分の血肉になったものだけが純粋に残ったような気がする。何てちっぽけな量なのだろうと思わされるばかりだが…