2015年11月27日

86 ◯



今日はこれから出雲に向かう。出雲大社神在月の祝祭である夜神楽の最終夜の特別祈祷に参加する為である。初めての体験で大変楽しみだ。

2015年11月17日

85 美しい老人 / ドナルド・キーン

旧知の演出家、芥正彦が特別講演をするというので、久しぶりに駒場東大に出かけた。私は駒場に20年程住んだので、よく東大構内を散歩したり購買に本を買いに行ったりしていた。さすがに日本の最高学府ともあり、専門書の品揃えも豊富だった。校庭は一通り歩くと30分はかかるくらい広大だ。本郷の三四郎池にちなんで駒場には一二郎池という池まである。
新しい建物もいくつか増え、以前の購買の建物は建て直されてピカピカだ。だが、中には近代建築そのものの古い建物も残されていて、ノスタルジックでなかなか良い雰囲気である。イチョウ並木も色づき始めている。もう少し経つとイチョウの葉が黄金に美しく散りしきることだろう。

さて、今回の講演は、三島由紀夫シンポジウムと銘打って、三島の生誕90年、没後45年の記念すべき年に三島文学を検証しようという訳である。芥は46年前、三島の自決の前年に東大全共闘の一人として三島と討論した。その映像が残っており、それを上映しつつ当時を振り返り、その後の日本の変遷を顧みたのである。シンポジウムの会場は、当時と同じ建物で三島と東大生が討論した講堂(900番教室)だ。この檀上に居たのだなあという感慨と共に、三島がもしこの現代に生きていたらと想像せずにはいられなかった。だが、あの自決が無かったとしても三島は長生きはしなかったであろう。三島は老醜を心から嫌悪していたという証言が、当日のパネリストの何人もから聞かされたのである。確かに三島の身体の鍛え方は尋常ではなかった。
今回のシンポジウムに出かけた理由の一つに、ドナルド・キーンの話が聞けるということも大いにあったのだが、お姿を拝見して本当に良かった。キーンさんは日本人以上に日本を愛し、日本に詳しい。日本文学の魅力を世界に伝えた人でもある。御年93才というのに、杖もつかず檀上に登るのに不自由はしない。とにかく驚かされたのはその美しさだ。何と言ったら良いのだろう、大変失礼だが、檀上のお姿を見て「何てきれいな、おジイちゃんだろう!」と思った。テレビや雑誌などの写真からは想像出来なかった。三島の嫌った老醜とは程遠いお姿だ。その美しさは内面からあふれ出たものに違いないだろうけれど、凛として透明感がある。
中村真一郎が美しく老いた女性を「威厳があって銀狐のよう」と称賛したが、それを思い出した。そんな風に年を取れる人はそうはいないであろう。










2015年11月10日

84 青い眼の光 / 夭逝の画家 島村洋二郎

どんなに印刷技術が発達しようとも、絵だけは実物と対峙しなければいけないと思う時がある。
それを衝撃と共に感じたのは、ゴッホの自画像と向き合った時だった。あの眼光に射すくめられて、しばらくは身動ぎも出来なかった。お前はそれで良いのかとその眼は問うていた。
島村洋二郎の自画像を初めて見た時も同じようなショックを受けた。洋二郎もゴッホと同じように貧しいままで37才の若さでこの世を去っている。やはりゴッホのように自画像も何枚も描いているが、中には凄まじい物もあり、それは最愛の妻が出奔した後に描かれた物で、その見開かれた眼に宿った狂気と慟哭と哀願には胸が締めつけられる。
その2年後くらい、死を目前にした頃に描かれたこの自画像の眼にも力強さはあるが、諦念と覚悟が感じられる。死を前に清浄な気持ちになれたのだとすれば少しは救われるような気もする。
洋二郎の驚くべきところは、これらの多くの絵をクレパスで描いたことである。貧しさから絵具を売り払い、クレパスで思いを塗りこめたのだ。とてもクレパス画とは思えない迫力だ。
優れた芸術作品がその作者の不幸から生み出されることはよくあることだが、そんな非凡な人生を送りたくもなく、送らないだろう我々凡人は作品を味わうしかない。それがどんなに苦悩の叫びや孤独の悲しみであっても、魂を揺さぶられる限りは。









2015年11月1日

83 職場のイヤシ部長

仕事が立て込んでくると猫の手も借りたいのはどこの職場でも同じだろう。私の職場では、猫の手ならぬ孫の手を借りてている。正確に言うならば又姪(孫のようなものだ)の親である姪の手を借りているのだが、生まれてまだ10カ月のゼロ歳児を伴っての出勤だ。この子が生後3ヶ月の頃から外出が出来るようになり、寝かせておけばいいからと週に1、2回程来てもらっているのだが、その内に寝ている時間も短くなり、今はもこもこと事務所を這い回っている。仕事場でもあるし、泣いて手に負えなくなったら帰すことにしているが、帰したのは1回だけという優秀さだ。
スタッフも「仕事に疲れたら、サツキちゃんを抱っこして癒されましょう!」と大らかに対応してくれて、早速ついたあだ名が「イヤシ部長」。テレビで木下ほうか演じる「イヤミ課長」がなかなかの人気キャラらしいが、こちらはゼロ歳児にしてあだ名がついた職場の人気者だ。女の子ながら男顔で行動もかなり激しくお転婆で、親が与えた赤ちゃんらしい女の子らしいおもちゃには目もくれず、事務所の文具や紙類がお気に入りでくしゃくしゃといじったり口に入れたりしていて、公演終了後の余ったチラシを彼女に与えているが、まき散らしてなかなか豪快に遊んでいる。まだオノマトペも獲得していないので、エイッでもなくヨイショッでもない、何とも表現し難い音声で掛け声らしきものもかけたりしている。デスクの下などの狭い所も好きで、いつのまにやら入り込んでいるが、事務所は自宅にはない面白い物がいっぱいあるワンダーランドのような所なのだろう。彼女にとっては毎日毎日が生まれて初めての体験ばかり。興味津々とばかりに学習している姿を見るのはとても新鮮だ。まさに赤ちゃんは学びの天才。私達も赤ちゃんだった時もあるのに、その学び方を忘れてしまって可能性や自由を閉じ込めていることを痛切に感じる。

そんなこんなでさして邪魔にもならず、今のところはイヤシ部長のたまの出勤は続いているが、歩き出したら手もかかるし危険が生じて注意も怠れないとなったら、来てもらうのは難しいかもしれない。こちらは託児所がある大会社とは違うのである。世の中には、イクメン、イクボス、イクカンなどの造語を通じて、子育てを推進し母親が働き易い環境を作る動きがあり、それはそれで良い事だと思うが、本来あたり前のことをキャッチコピーを作って推進しなければいけない社会自体が問題ではある。
だが、社会は変わりつつある。通勤途中のスーツ姿で赤ちゃんを抱っこしている若い父親を見かけることも多くなった。先日は電車の中で、抱っこした赤ちゃんのアーアーという喃語に、そうだね、そうだねと優しく答えている若いパパの様子がとてもほほえましかった。彼らが自然体であるのが大変好ましい。