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2014年4月21日
17 「旅」再び /書・山本萠
山本萠さんは、春と秋、年二回個展を開いている。時々、地方に呼ばれることもあり、私も旅行を兼ねて訪ねたこともあった。いつも雰囲気のある小さなギャラリーを会場にしているが、ここのところ国分寺のくるみギャラリーが多い。
今回の個展で再び「旅」の字に出会った。これは飛んでいる鳥のように見える。勿論、きちんと筆順で書いた字であり、やはり象形文字として漢字は面白い。
鳥になって自由に大空を飛べたら、と思うことは誰にでもあるに違いない。遥かなる旅への希求がそこにはあるのだろう。
萠さんは「旅行が好きなのに最近出かけていない」と話す。その思いが「旅」という字が最近の創作のモチーフの一つになっていることに繋がっているのかもしれないとも。
そうかもしれないが、萠さんは創作と思索を通して、内なる広い世界へ存分に旅をしているように私には見える。出かけなくとも、豊かで自由な旅をしているのだと思う。
個展の初日に来た方がこの書を気に入って、購入するかどうかを随分迷われたようだが、結局はこうやって私にご縁があった。待っていてくれたのだろう。
早速、玄関に掛けてみたが、出かける時に見るのに相応しい書だ。


今回の個展で再び「旅」の字に出会った。これは飛んでいる鳥のように見える。勿論、きちんと筆順で書いた字であり、やはり象形文字として漢字は面白い。
鳥になって自由に大空を飛べたら、と思うことは誰にでもあるに違いない。遥かなる旅への希求がそこにはあるのだろう。
萠さんは「旅行が好きなのに最近出かけていない」と話す。その思いが「旅」という字が最近の創作のモチーフの一つになっていることに繋がっているのかもしれないとも。
そうかもしれないが、萠さんは創作と思索を通して、内なる広い世界へ存分に旅をしているように私には見える。出かけなくとも、豊かで自由な旅をしているのだと思う。
個展の初日に来た方がこの書を気に入って、購入するかどうかを随分迷われたようだが、結局はこうやって私にご縁があった。待っていてくれたのだろう。
早速、玄関に掛けてみたが、出かける時に見るのに相応しい書だ。


2014年4月13日
16 「トランクひとつ」への第一歩 / 遺言
今日も休めた。この間の休みと違い、よく晴れて春らしい気持ちの良い日曜日だ。マンションの中庭に咲いた白い花みずきの新緑が、春の日差しに映えてとてもきれいだ。
昨日の催しで人前で話すことがあり少し疲れていたので、誰とも話さなくて良い休みが出来てほっとする。本当に休みは大切だ。
さて、そろそろ、我が命題である「トランクひとつ」への整理に取りかからなければならない。
一ヶ月一アイテムぐらいのペースで行こうかと思う。
私に何かあった時、他人様は勿論のこと家族にも出来れば迷惑をかけたくないのは山々だが、それよりも大切なのは、最後まで自分らしく自分の思い通りに生きたいということである。その為には、常日頃から周りに自分の考えを伝えておくことが大切だ。書き残しておけば間違いないだろう。
私の場合、40才の時に吹き込んだテープと55才の時に書いた遺言書が手元にある。二つ共それぞれ、大切な人を見送った時に思うところがあり作った物だ。
その自由な生き方に憧れ、姉とも慕い、仕事仲間でもあった5才年上の女優の中島葵を見送ったのは私が40才の時だった。60年代、70年代という時代の空気が後押ししたこともあり、彼女は実に奔放に短い人生を駆け抜けた。彼女はひたすら自分を求め、それは病を得てからも変わらず、最後まで自分らしく生きた人であった。再発した癌で余命いくばくも無くなった時から一切の延命治療はせず、長野の山の麓の病院で旅立った。治療法に今ほど選択肢が無かった20年以上前にそれが出来たのも、彼女の生き方が周りに伝わっていたことと、パートナーである演出家のAの強い意志と実行力とが病院と担当医を動かし、自由にさせてもらえたのだった。
彼女の死をきっかけに、人生の最後をどう過ごしどう送ってもらいたいかを言葉で残しておきたいと思い、自分の考えをテープに吹き込んでみた。以後、誕生日頃に年に一回、確認の為に聞き直していたが一度も考えは変わらず、いつの頃からか確認はもう良いだろうと思いそのままになっている。考えは変わらないと思うがこの機会に一度聞き直し、加えることがあれば付け足して、カセットテープからCDに移してから残そうと思う。
そして次に遺言書だ。今私が運営に関わっている「伝統芸術振興会」の前会長で創設者の南部峯希を見送った時に、身をもって知らされたのは遺言書の大切だった。
��0才まで病気一つしたことが無かった南部だったので、癌の手術を控えて冗談のように書いた遺言書だったが、後に役立ち、残された財産が会の運営にも活かされているのだから、会に関わる人間にとっては身につまされる話である。南部には子供がおらず、親ももういないので遺言書が無ければ、財産は国庫没収の憂き目をみるところだった。そんなことになっていたのならば、南部本人が何よりも無念に思ったに違いない。
彼女と違い私には家族が多く、相続人の範囲内に何人か居るので、国庫没収の憂き目は見ないだろうが、家族に煩わしさを残さない為にも書いておくのに越したことは無いだろう。家族が揉めたり、没収されて残念がる程の財産が無いので、それが残念ではあるが…
最悪お金を残せなくても、後始末代くらいは出るようにと保険にも入っているが、これも今回整理しようと思う。必要最低限の物で良いだろう。
保険会社にもらった証書入れのファイルに適当なのがあったので、そこにそれぞれ整理をした保険証書、遺言書、変事の際のテープ(CD)、連絡名簿、それらをまとめて一つにして入れよう。それをトランクへ入れたら、このことから解き放たれて自由になろう。考えが変わらなければ、このことに関してもう悩むことは無いのだ。

昨日の催しで人前で話すことがあり少し疲れていたので、誰とも話さなくて良い休みが出来てほっとする。本当に休みは大切だ。
さて、そろそろ、我が命題である「トランクひとつ」への整理に取りかからなければならない。
一ヶ月一アイテムぐらいのペースで行こうかと思う。
私に何かあった時、他人様は勿論のこと家族にも出来れば迷惑をかけたくないのは山々だが、それよりも大切なのは、最後まで自分らしく自分の思い通りに生きたいということである。その為には、常日頃から周りに自分の考えを伝えておくことが大切だ。書き残しておけば間違いないだろう。
私の場合、40才の時に吹き込んだテープと55才の時に書いた遺言書が手元にある。二つ共それぞれ、大切な人を見送った時に思うところがあり作った物だ。
その自由な生き方に憧れ、姉とも慕い、仕事仲間でもあった5才年上の女優の中島葵を見送ったのは私が40才の時だった。60年代、70年代という時代の空気が後押ししたこともあり、彼女は実に奔放に短い人生を駆け抜けた。彼女はひたすら自分を求め、それは病を得てからも変わらず、最後まで自分らしく生きた人であった。再発した癌で余命いくばくも無くなった時から一切の延命治療はせず、長野の山の麓の病院で旅立った。治療法に今ほど選択肢が無かった20年以上前にそれが出来たのも、彼女の生き方が周りに伝わっていたことと、パートナーである演出家のAの強い意志と実行力とが病院と担当医を動かし、自由にさせてもらえたのだった。
彼女の死をきっかけに、人生の最後をどう過ごしどう送ってもらいたいかを言葉で残しておきたいと思い、自分の考えをテープに吹き込んでみた。以後、誕生日頃に年に一回、確認の為に聞き直していたが一度も考えは変わらず、いつの頃からか確認はもう良いだろうと思いそのままになっている。考えは変わらないと思うがこの機会に一度聞き直し、加えることがあれば付け足して、カセットテープからCDに移してから残そうと思う。
そして次に遺言書だ。今私が運営に関わっている「伝統芸術振興会」の前会長で創設者の南部峯希を見送った時に、身をもって知らされたのは遺言書の大切だった。
��0才まで病気一つしたことが無かった南部だったので、癌の手術を控えて冗談のように書いた遺言書だったが、後に役立ち、残された財産が会の運営にも活かされているのだから、会に関わる人間にとっては身につまされる話である。南部には子供がおらず、親ももういないので遺言書が無ければ、財産は国庫没収の憂き目をみるところだった。そんなことになっていたのならば、南部本人が何よりも無念に思ったに違いない。
彼女と違い私には家族が多く、相続人の範囲内に何人か居るので、国庫没収の憂き目は見ないだろうが、家族に煩わしさを残さない為にも書いておくのに越したことは無いだろう。家族が揉めたり、没収されて残念がる程の財産が無いので、それが残念ではあるが…
最悪お金を残せなくても、後始末代くらいは出るようにと保険にも入っているが、これも今回整理しようと思う。必要最低限の物で良いだろう。
保険会社にもらった証書入れのファイルに適当なのがあったので、そこにそれぞれ整理をした保険証書、遺言書、変事の際のテープ(CD)、連絡名簿、それらをまとめて一つにして入れよう。それをトランクへ入れたら、このことから解き放たれて自由になろう。考えが変わらなければ、このことに関してもう悩むことは無いのだ。

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