それを衝撃と共に感じたのは、ゴッホの自画像と向き合った時だった。あの眼光に射すくめられて、しばらくは身動ぎも出来なかった。お前はそれで良いのかとその眼は問うていた。
島村洋二郎の自画像を初めて見た時も同じようなショックを受けた。洋二郎もゴッホと同じように貧しいままで37才の若さでこの世を去っている。やはりゴッホのように自画像も何枚も描いているが、中には凄まじい物もあり、それは最愛の妻が出奔した後に描かれた物で、その見開かれた眼に宿った狂気と慟哭と哀願には胸が締めつけられる。
その2年後くらい、死を目前にした頃に描かれたこの自画像の眼にも力強さはあるが、諦念と覚悟が感じられる。死を前に清浄な気持ちになれたのだとすれば少しは救われるような気もする。
洋二郎の驚くべきところは、これらの多くの絵をクレパスで描いたことである。貧しさから絵具を売り払い、クレパスで思いを塗りこめたのだ。とてもクレパス画とは思えない迫力だ。
優れた芸術作品がその作者の不幸から生み出されることはよくあることだが、そんな非凡な人生を送りたくもなく、送らないだろう我々凡人は作品を味わうしかない。それがどんなに苦悩の叫びや孤独の悲しみであっても、魂を揺さぶられる限りは。