甥が長野市で結婚式を挙げるというので、会場が善光寺近くともあり、何十年ぶりに善光寺にお参りに行って来た。一生に一度はと喧伝されるほどの名刹であるので、長野県人としては小学校の間に一度は遠足で行くところである。私たちの年は御開帳と重なったので、日帰りでは無く一泊だった。翌年予定されている修学旅行に先んじて、初めて友達と外泊出来る興奮と楽しさだけが記憶に残っており、御開帳の有難さは一切覚えていない。まあ小学校5年生なんていうものはそんなところだろうが、その時有難さ感じているくらいだったら、今の私はもっとマシな者になっていたに違いない。
久しぶりに訪れた善光寺はやはり立派だった。山門も仁王門も堂々としている。
線香をあげ煙を身体に頂き、本堂に入る。すぐの所に、びんずる尊者が鎮座している。通称「おびんずる様」と言って、病人が自らの患部と同じところに触れ、尊者の神通力にあやかって治して頂くという信仰である。ここのところ右膝が不調な私は右膝をすりすり、せっかくだから(?)ほかの部分もなでなで。おびんずる様は何百万という善男善女に撫でられたのだろう。頭の天辺から足のつま先まで隈なくぴかぴかである。庶民信仰とはこういうものだろう。
善光寺参りの中で特筆すべきは「お戒壇巡り」である。これはさすがに昔の10才の私の記憶にもかすかに残っていた。御本尊様の下、一寸先も見えない暗闇の中を手探りで進む感覚はとても印象深い。お戒壇の中の暗闇は無差別平等の世界をあらわしているという。確かに暗闇の中では、日常の様々なとらわれの心を離れ、手探りで一心に出口に向かう。そこには手の感触といつか見えるはずの出口の光を求める心があるだけなのだ。それはどんな人間にとっても同じはずだ。
善光寺では、勿論、甥達夫婦の幸福も祈ったが、その結婚式も無事に終わった。
輝かし過ぎる新郎新婦のプロフィールの発表も無く、泣かせの演出も無く、やたらとおしゃれに凝り過ぎず、オーソドックスで笑いのある心温まるとても良い結婚式だった。衣装も最近は芸人みたいにピカピカなのが多い中で、地味目だが品があって二人とも背が高いので却って引き立っていた。泣き虫だった昔の甥を思い出してはよくからかっていたが、立派になったものである。
二人は青年海外協力隊で派遣されたモンゴルで知り合ったので、その共通の友人たちが受付を手伝ってくれ、民族衣装を身につけ受付周りもモンゴル色豊かに設えてくれていた。
モンゴルの音楽、馬頭琴とホーミーの演奏者も駆けつけてくれ、モンゴル色に彩りを添えてくれた。馬頭琴はとても縁起の良い楽器とも聞く。甥夫婦に幸あれと願いつつ、遥か草原の音に耳を傾けた。

「私はどういう人間ですか」と母が問う。ふいをつかれて私は困惑し、平静さを装いながらも「名前は・・・・・といって」と母の名前を言った途端、「そんなことは分かっている!」とぴしゃり。アルツハイマーの症状がまた少し進んだ母の口からは、以前の母のボキャブラリーには無かった本質的な言葉が出る時があり、驚かされる。禅問答のようになる時がある。
それにしても「どういう人間か」と訊かれてまず名前を言うとは、野暮ったい答だったなあと我ながら残念である。それは母が理解するとかしないとかの問題では無い。どうせすぐ忘れるからどうでも良いということでもない。私だったら相手にどんな答えを期待するだろう。これは結構深い問いである。
この連休を利用して、叔母二人と妹二人とで母を老健から連れ出し、野辺山の山荘に泊まった。この山荘はお料理が美味しいので、地元の人も宴会などに使うことがある。摘みたての山菜の春の緑が目にも嬉しい。母も「美味しい、美味しい」と沢山食べてくれた。
部屋から八ヶ岳がよく見えて、今年は大雪だったせいか雪もまだ沢山残っている。山国の春は遅く、花は一斉に咲く。山桜、コブシ、レンギョウ、雪柳…カラマツの新芽も美しい。
「白樺 青空 白い雲 コブシ咲くあの丘 北国の春」の作詞者いではくは、同郷である。叔母の一人と同級生だ。あの歌は東北の春を歌ったとされるが、我が地元の人は「明神様のあのコブシを思い出して作ったものらしい」と、ありがちなモデル捜しをしたりしているから可笑しい。小学校近くの古い小さな神社のコブシの白い花は、春を告げるシンボルだった。
北国も山国も春の風景は同じであろう。日本の田舎の原風景がここにある。自然の中の生命の息吹を見て、あー今年も春が来た、あー今年も私は生きている、と感じながら、人は元気になるのだ。やっぱり春は良い。

山本萠さんは、春と秋、年二回個展を開いている。時々、地方に呼ばれることもあり、私も旅行を兼ねて訪ねたこともあった。いつも雰囲気のある小さなギャラリーを会場にしているが、ここのところ国分寺のくるみギャラリーが多い。
今回の個展で再び「旅」の字に出会った。これは飛んでいる鳥のように見える。勿論、きちんと筆順で書いた字であり、やはり象形文字として漢字は面白い。
鳥になって自由に大空を飛べたら、と思うことは誰にでもあるに違いない。遥かなる旅への希求がそこにはあるのだろう。
萠さんは「旅行が好きなのに最近出かけていない」と話す。その思いが「旅」という字が最近の創作のモチーフの一つになっていることに繋がっているのかもしれないとも。
そうかもしれないが、萠さんは創作と思索を通して、内なる広い世界へ存分に旅をしているように私には見える。出かけなくとも、豊かで自由な旅をしているのだと思う。
個展の初日に来た方がこの書を気に入って、購入するかどうかを随分迷われたようだが、結局はこうやって私にご縁があった。待っていてくれたのだろう。
早速、玄関に掛けてみたが、出かける時に見るのに相応しい書だ。

